三〇 厳冬の伐採作業

 

 シベリアの空の下で、わが身が虜囚の身であることをしみじみと実感したのは、厳冬の伐採作業であった。私が伐採作業に就いたのは昭和二一年十一月上旬で、生煉瓦の窯入れ作業が終わったその翌日からであった。伐採作業の厳しさは、伐採材の藪出しのとき凡そ想像できた。伐採作業跡をみて、よくもこの様な太い立木を手曳きで切り倒すことができるものだと感心した。私は少年のころ冬山切り出しの手伝いで、直経五〇センチ程度の立木を切り倒した経験があったので、切り口等からその人の腕前を見分けることが出来た。そのとき、冬山の伐採ほど厳しく辛いものはなく、子供心にもこの仕事だけにはつきたくないと思った。想像するだけで身震いするほど嫌っていた作業が、この厳冬の中で延々六ヵ月も続くのかと思うだけで、目の前が真っ暗になる思いであった。毎朝八時、夜明け前の薄暗い中、衛兵所前の広場で作業人員の点検を受け、伐採用器材を持たされ伐採現場に向かった。天地も凍てつく雪路を、持たされた器材を小脇に抱え、無気力な足取りで歩き続けた。これに業を煮やす監視兵が盛んに「ブィストレ、ブィストレ」と先を急がせる。我々にとっては歩く時間も作業のうちと心得て、けして急ごうとはしない。露出させているのは目だけであったが、睫も凍る冷たさ、痛さである。既に昨冬から同胞達が樹海を切り進んだとみえ、作業現場までは約二時間ほどの道程があった。

 作業現場に着いても未だ夜は明け切らず、前日伐採した枝木を集めて火をつけ暖を取りながら夜明けを待つのである。聞くところによると、この枝木を燃やすのも作業のうちで、ソ連側の指示では、松食い虫の発生防止のため、伐採木の枝木はすべて焼き払っていたのである。手元が明るくなると、監視兵が回って来て働けと急き立てる。その仕種が我々にとってはまことに屈辱的なものであった。

 伐採作業は大抵の場合八名がグループとなり、二人組で作業に当たるのが通例であった。それは伐採用の鋸が二人曳きであったからである。私の相方も伐採作業には全く経験がなかった。私とて目の前にしている落葉松の巨木を手がける自信がなかった。さりとて順次伐り進んでいた作業状態の中では立木の選り好みも出来ず、結局ふた抱えもある大きな落葉松に鋸を当てることになった。先ず伐り倒す方向をを決め、二人が作業をする足もとをかためて切り始める。ところが、凍った立木は鋸の刃を受けつけず、木肌の上で踊って走り、なかなか切り込むことが出来なかった。これは私にとっても初体験であった。昨冬、この地で伐採に当たった同胞から、立ち木が凍って裂ける話を聞いていたが、本当に立ち木が凍っているのである。そのうえ、初めて使う二人曳きの鋸の使い方で意気が合わなかった。こうした初体験に工夫を重ねながら、やっと一本の落葉松を伐り倒すことができた。僅か切り残った部分が、大きな音をたてて裂け、巨木がもんどり打って倒れた。その風圧で雪煙が樹間に舞い上がった。暫くは今倒した木に腰を下ろして一息をつく。それは、かってない大技を為し遂げたという充実感と、長時間中腰で鋸曳した疲れが体中を駆け巡つていた。この日の作業は、倒した木の枝払いまでは出来たが、更に二メートルに輪切りして積み重ねて、ノルマの点検を受ける段階までには至らなかった。

 ソ連側は、この冬から伐採作業のノルマ達成を、うるさく迫まってきた。聞くところによると、同胞の中で北海道檜山出身のキコリ経験者が居て、我々の四人分の作業量を、一人で軽く消化しているというのである。このことに目をつけたソ連側では、日本人はやらせれば必ず出来ると思い込み、我々が怠けていると迫ってきたのである。この話も最初のうちは我々の作業能率を上げるためのデマとしか受け取っていなかった。若し事実としたら、彼は何故そうまでして働き、同胞仲間の相場壊しをするのだろうかと不審に思えた。でも、この話は事実であった。詳細を聞くと、彼は日本式のキコリ鋸を作らせ、毎夜自分の手で鋸の目立てをして作業に当たっていたと云うのである。我々とは器材も腕も違う。一本を伐り倒す所要時間は我々の四分の一、そのうえ梃子一本で材木を操るように動かせるという「きこり達人」であった。勿論ソ連側は、優秀な彼の欲する儘に食事、煙草などが与えていたのであった。彼は彼なりにこの地での俘虜の生き方を求めてやつていたことであろう。

 我々仲間も、その後の伐採作業の中でそれなりに工夫を凝らしてはいたが、依然として作業能率は上がらなかった。肝心な鋸の目立てが十分に出来ていないため、相も変わらず凍った木の肌で鋸が踊っていた。そのうえ、相変わらずノルマ相当の最低量の餌食を喰っていたので、力も入らず頑張る気力も湧いてこなかった。それでも唯一の楽しみと云えば、昼の休憩であった。空き缶に貰った僅かばかりのカーシャに雪を詰め、松の小枝で支えて焚き火にかけて水増をし、スープ状に煮上がったカーシャを、各自が木片で作ったスプーンで、一口づつ時間をかけて飲むことであった。それも仲間八人がほぼ同時に飲み終わるように、お互いが間を取りながら口にしていた。こんな些細なことにしか楽しみが得られなかったのであつた。また食後には、余程激しく吹雪かない限りは、焚き火の周りで横になって休んでいた。殊に私には腰痛があったので、この休憩時間に必ず細めの丸太を腰に当てて横になっていた。僅かな時間ではあったが、午後からの作業に備え疲れを癒すには、これしか方法がなかったのである。屡々、休憩時間を超過して監視兵のお叱りを受けていた。ところが、人種による考え方の違いは面白いもので、日本人はさぼっているところを見つかると、直ぐ腰を上げると影日向があると思われ、気がひけて立つことをためらうが、彼等は直ぐ腰さえ上げれば、来ても何等の苦言を呈することがない。逆に黙って居座っているものなら、銃尾をふりかざして激怒するのであった。

 年が明けて昭和二二年一月中半ば頃からは、作業も少しづつ馴れてきて、当初ほどの苦労をせずに済むようになった。しかし、ノルマの達成など到底かなうものではなかった。ソ連側は、これに業を煮やしてか、新手を使ってきた。「ハラショー・ラボーター(よく働く者)は、早く帰国させる」と云う風聞を所内に流し、更に「民主運動」の中に、このことを組み込んできたのである。これは我々の弱みにつけ込んだ愚劣なやり方ではあったが、我々の作業への取り組み方を本質的に変えさせたのである。このため同胞同士のなかで、いざこざが起き始めた。グループ作業であるから体の弱い者、作業要領の悪い者などが、敬遠される風潮が出始めたのであった。私もこのことを半ば現実として受け取らざるを得なかったが、体力的にはどうあがこうともなす術がなかった。あがいて命を縮めるよりも、成り行き任せで生きて行くしかないと半ば諦めていた。

 この厳しい伐採作業も、氷点下三〇度以下まで下がると、ソ連側から作業待機命令が出るのである。それも事前には出されず、必ずといって衛門前に集合させてから取り決めをするのである。勿論、終日を待機で終わることは珍しく、大抵は日の出を待ってから作業に出かけていた。

 私には、一度作業場に向かう途中で、激しい悪寒に襲われ、凍死する思いをしたことがあった。その日の朝も気温が氷点下三〇度ありなしで、衛兵と日本側責任者がひと揉めした後の出発であった。収容所内の煙突から出る煙は屋根の上あたりで留まり、氷片となって降るほどに凍てつく朝であった。私は衛門を出る前から身を刺す寒さにふるえていたが、そのあとスコップを小脇に抱え地吹雪の中を一キロメートル程歩いたところで、急に激しい悪寒が襲い、自分では体の震えを抑えることが出来なくなった。私はこれが凍死の前兆の発作かと意識した。私の様子の変化にいち早く気づいた仲間達が、「歩け、佐々木歩くんだ。止まったら駄目だ」と叱声をかけながら駆け寄り、すかさず私の小脇からスコップを取り、体を支えて歩かせてくれた。そのあと二〇〇メートルぐらい雪道を引きずられるようにして歩いた。すると、徐々に体温が元に戻り、震えがおさまったのである。そのあと歩きながら、私はふと昨年春藪出し作業の帰り道で死んで逝った同胞のことを思い浮かべていた。彼もきっと衰弱と寒さに耐え切れず逝ったのだろう。私とて若し仲間の叱声と手助けが得られなかったら、彼同様に瞬時にして命をおとしていたにちがいないと思った。

 私の体力からして、どんなに工夫をこらしても、更に作業能率を上げることは難しかった。しかし、いくら俘虜の身だからといって、いつまでも無気力のままではいられなくなった。「民主運動なるもの」からの批判を念頭にいれて働かなければならなくなってきていたのであった。今日からは、少し考え方を変えて頑張ることにして、いつもより太めの立木に鋸を当てた。多少は馴れてきたものの相変わらず鋸の切れ味が悪く、一向に切り進まない。三時間もかかって、やっとものにしたと思った途端、風をうけバリバリと裂ける音とともに伐り口が一回転して、隣りの立木にひっかかって、ついに倒れなかった。勿論、この日の作業ノルマは、「ノーラボート」となった。厳冬のなかで、労働が強制的に課せられている限り、常に自分の生命に不安を抱きつつ、来る日も来る日も厳しい伐採作業を遂行せざるを得なかった。午後三時過ぎ、日没とともに宵闇が樹海を覆い、手元が薄暗くなると作業の終了が告げられ、型どおりの人員点検を受け、また器材を小脇に抱えて疲れた体を引きずりながら帰途についた。薄暗い雪路に細長い黒い隊列が揺れ動く、それは誰の目にも無気力なぼろの集団としか映らなかったであろう。