二九 働かざる者は食うべからず

 

 「働かざる者は食うべからず」を国是とするソ連側では、我々同胞に対し体力以上の作業ノルマを課し、食を欲するならば働けとの一点張りであった。たてまえ上、二ヵ月おきに申し訳程度に行ってきた体力検査も、腕や臀部の筋肉をつまみ、その筋肉の弾み具合を見るだけで体力等位が決められていた。だから、余程痩せていない限りは、二等位以上に格付けされ、過重な作業ノルマを課し、その達成を迫っていたのである。私達仲間が、作業大隊へ配属になった翌日から就いた藪出し作業では、自分たちに課せられている基準作業量が、どの位いのものかそれさえ知らなかった。ただ与えられた物を喰い、云われるままに働いていた。また当初はそれが精一杯の日々であった。日が経つにつれ内部事情も次第に分かり、現在自分たちに与えられている食料は質量とも、ノルマ達成者の二分の一に近いものであることが分かった。仲間内ほんの一掴みしかいないノルマ達成者に対しては、夕食には黒パン四五〇グラムとスープ、そのうえ大麦のカーシャ(粥)二五〇グラムが追加支給されていた。ノルマを達成出来なかった我々には、黒パン二五〇グラムに、凍ってなかば腐ったような馬鈴薯の切り込みが、申し訳程度に入ったスープのみであった。しかし、我々が如何に食を欲しようとも、達成可能なノルマではなかったのである。

 春が来て、そして夏に入っても、この湿地地帯に顔を出すのは谷地草ばかりで、自衛策として食べられる野草は生えていなかった。煉瓦の粘土堀り作業に就いて間もない頃、昼飯の休憩時に、周辺の野地で疎らに顔を出していたつくしを摘み焼いて食べたり、また草むらの蔭に潜む蛙を串刺にして焼き、仲間と分けあって食べたが、これとていずれも戯れに過ぎず、決して腹の足しになるようなものではなかった。

 この作業大隊での昼食は、昭和二一年の一月から三月までは、塩味スープの中に大豆の煮豆が小量入ったもののみが支給され、その後は殆ど毎日のように大麦のカーシャだけが支給された。これとてそのまま食べると、スプーンで五、六杯も掬いあげると食べ尽くすほどの少量であった。だから、我々仲間の昼食は、どのような作業についていたときも、食べる前に必ず水や雪を足し、岩塩を小々加えて、火にかけて量をのばしてからすすっていた。これには食前の食への期待と、食後僅かに得られる満腹感を感じとろうとしていたのである。殊に厳寒期では、こうして流動食を撮ることによって体が温まるので、一人残らずこの方法で食事をとっていた。

 私にも一度だけ「ハラショー・ラボート」と見做され、夕食でその恩恵に授かったことがある。それは、昭和二一年の十一月下旬のある朝、衛兵所前で私の所属作業班の一部に、急遽作業命令の変更があり、私を含め数名が道路の整備作業に回わされた。別個に集まっていた二〇名ほどの作業員と合流し、渡されたスコップやツルハシを肩にして監視兵に連れられ、かってこのラーゲリへ来た際に通った道路を戻るようにして作業が進められた。この作業内容は、路面に転がっている石ころを路肩に寄せる簡単なもので、作業は順調に進行していった。ところが、この日は猛吹雪で、時折先も見えない息が詰まるような地吹雪が舞う悪天候であった。いくら厳寒に馴れている監視兵もこの寒さには耐え切れないとみえ、頻りと先を急ぐように先頭を行くのであった。我々はこれ幸いと便乗し、時折り石ころにスコップの尖端をあて、作業音を発しながらついて行き、この日の作業区間を二時間も早く終えたのである。帰途、スコップなどを肩に追い風を背に、こんな楽な仕事もあるのか、ソ連側のノルマの設定もいい加減なものだと思いつつ帰った。この日だけは地吹雪が幸いしたといえよう。

 その翌日の夕食時に、炊事場で私が初めて手にした「ハラショー・ラボート」の成果である四五〇グラムの黒パンの大きさと、そのどっしりとした手ごたえには、思わず頬がほころびた。そのうえ持参して来た空き缶に入れてくれたカーシャの手ごたえも、何とも云えない心地であった。あの程度の作業で、こんなにも沢山貰っていいのだろうかと、声ならぬ呟きが自然にもれた。飢えた犬が思いもよらぬ餌食にありついたかのように、私は食堂の隅に座り、カーシャからおもむろに食べた。ところが、不思議にも沢山貰ったという満足感が働いてか、カーシャを食べただけで満腹感を感じ、結局、四五〇グラムの黒パンには手をつけず、そのまま宿舎に持ち帰った。宿舎には三ヵ月ほど前から私の横で起居をともにし、親しくつき合ってくれていた静岡出身の堀井先輩が居たので、私は持ち帰った黒パンを見せ、「これは昨日の作業の成果品だよ」と言い笑いながら彼と分けあって食べた。私はその後、昭和二二年の春三月まで伐採作業にあたっていたが、その間一度もノルマを達成することが出来ず、何時も最低の給食しか口にしていなかった。

 人間は飢えてくると誰でも見境を失うものである。二一年の夏の或る日曜日の午前のことである。休養をとり宿舎でゴロゴロ寝ころんでいたところへ、糧秣の荷下ろし使役の声がかかり、私も初めて出る嵌めになった。糧秣の荷下ろしにはなんらかの役得があったとみえ、今までも皆が先を競って出ていたので、私には出番がなかった。輸送されて来ていたトラックの幌の中には、大麦や岩塩の袋詰め、塩蔵魚が入ったビワ樽など諸々が積み込まれていた。収容所長は、炊事場の横に建っている糧秣倉庫までこれらを搬入するようにと指示して、直ぐ何処かへ姿を消したのである。これは、日頃飢えている我々にとって、大変好都合な状況設定となった。早速よからぬことの実行に取りかかった。先ず中味を点検し、即座に食べられる物があれば、この場ですぐ胃袋に入れようという算段である。あいにくこの日の糧秣の中には、それらしき物がなく、最後に目をつけたビワ樽を、斜めに傾けて腰をつかせるようにしてトラックから落として蓋を割った。樽の中味は塩蔵鰊で、この塩漬け鰊はスープの味付け材料としてよく使われていたものであった。早速、頭と内蔵を取り除き、魚体に付着している岩塩を手ですぐって食べた。こうして塩漬け生鰊を食べたことがなかったから、最初の一口にはかなり抵抗があった。しかし飢えたる者の賤しさで、これを腹に入れることで少しでも命が長らえるという浅ましさから、ショッパイとか気持ち悪いなどとは云っておられず、結局、体長30センチ程の一匹を平らげてしまった。そのうえ、宿舎で当てにして待っている同僚への土産にと、左右両方のズボンの物入れに一匹づつ捩じ込み宿舎に戻った。悪事を働くものではない。天罰てきめんで、宿舎に戻って間もなく、胃袋が焼け付くように痛み、普段から飲むことが禁じられていた生水を、何度となくガブ飲みして耐えていた。それから二時間後に下痢をし始め、その夜は数回にわたり舎外の厠通いをする嵌めになり、殆ど眠ることもできなかった。命長らえるどころか、死ぬ思いを経験した。もう二度とこんな浅ましいことは繰り返すまいと思った。

 しかし、人間の弱さか飢えがそうさせるのか、その翌年の昭和二二年二月上旬、夜九時過ぎのことである。炊事場から突然使役を頼まれ、仲間の一人を連れ立って出掛けた。仕事は倉庫から炊事場まで、羊肉を運ぶだけの作業であった。私が食糧倉庫に足を入れたのは、忘れもしないあの塩漬け鰊の一件以来のことであった。灯りの設備のない暗い庫内には、既に運搬する羊肉は分かりやすく出口に纏められていたが、この折角の機会を逃す手はあるまいと、相談のうえ、「夜陰に乗じて何とやら」で、庫内に保管してある羊肉から小さな塊まり二個を手探ぐりで掴み、スボンの物入れに隠し入れた。これは思いもよらぬ収穫だとにんまりしながら、羊肉を炊事場まで運び終わって宿舎に戻った。仲間たちは既に寝入っていたので、静かにストーブの焚き口を開いて、掠めてきた羊肉を火の中へ投げ込み、焚き口を閉めて焼き上がりを待った。もういい頃合いと思って取り出して見たところ、四つの塊まりとも中がジクジクとして、まだ焼き上がっていない。どうもおかしいと思い、焚き口の火明かりで確かめると、なんと肉の塊りではなく、腸の切れ端で、中には糞が詰まっていたのであった。一瞬がっかりはしたが、思い直してストーブの中で糞を木片で掻き出し、腸をさらに焼いて食べた。私にとっては、またしても、つまらぬ失策を繰り返したのであった。

 このラーゲリに移されてから間もなく一年になろうとしたが、春から冬へと日々牛馬の如く働き続けてきた。人間は元来創造的に働くものであるが、私達にはその意思を働かせる気力さえなかった。私にはまだひとつ宝物が残っていた。それは延吉の仮収容所で、体の弱い私にはこの先なんらかの形で役立つことが必ずあると思いながら、上着の襟元に縫い込んだ時計であった。噂によると同胞兵士達の殆どが、既にこの種の宝物を物交で手放していると云うのである。私も、常々どうせ帰国の当てもなく、そのうえ使えもしない物を何時までも隠し持っていてもつまらぬと思い、機会があれば処分しようと考えていた。よく「蛇の道はヘビ」というが、人の世はいずこも同じで、このラーゲリの中にもこの筋に通じた者が居た。私が時計を手放すことになったのは、浴場に勤務していた同胞の口利きがあったからである。今まで耳にしていた交換条件としては、大抵は煙草か黒パンとの交換であった。私としては今更こちらから条件を持ち出す考えもなく、相手の言いなりでよいと思った。ただ、若し希望が入れられるなら、煙草が欲しかった。或る日曜日の入浴時に、口利きしてくれる彼に時計を渡した。二日後に彼は私を宿舎の外へ呼び出し、問題の黒パンと葉煙草が手渡された。このことは誰にも告げていないうえ、手渡された二キログラムの黒パンが余りにも目立ちすぎるので、手にはしたものの一瞬どうしょうかと戸惑ったが、結局上着を脱いで包み、同胞の目を避けるようにして宿舎に持ち帰った。私にとっては物々交換して手に入れた物で憚ることはないが、正規ルートの品物でないところに問題がある。おそらく同胞への支給品をソ連人がピンハネしてよこしたものであるから、大ピラに振る舞うことも出来ず、夜遅くなって先ず日頃から意の通じ合っていた同僚達に黒パンをそぅと分け与え、私自身もこのときばかりと思い切り食べた。しかし、私の胸のうちは、かって「ハラショー・ラボート」で食べた喜びは味わえなかった。