二八 森永軍医は医者なのか

 

 昭和二一年二月下旬、この作業大隊のラーゲリに入ったときには、私の腹の傷はまだ二センチほど残っていた。このラーゲリには一応医務室があり、森永大尉という軍医が常駐していることも、同宿の仲間から聞かされた。確か入所後三週目の日曜日だったと思うが、朝一〇時頃、その医務室へ出掛けて行った。医務室に入ると、応対に出て来たのが、話に聞いていた森永軍医であった。面長で色白い眼鏡をかけた年配者で、私の顔を見るなりいきなり、「どうした」と問診してきた。私もいきなり、「どうした」と聞かれると、なんと答えてよいか戸惑った。一息入れてから、「傷の手当をして欲しい」と云った。すると彼は、私の頭から手足まで、順次なめるように視線を向けながら、「どこだ」とぶっきら棒に聞く。彼は、私が傷の手当をして欲しいと云ったから、作業中に怪我でもしたと診取っていたのであろう。私はこれ以上彼との問答をさけるため、上衣を脱いで腹の傷を見せた。森永軍医は直感的に部屋の隅にあるベットで横になれと云った。私は言われるままにベットの上で横になり、診察を待つた。

 彼は傷の周辺に手をやりながら、「何時何処で手術したのだ」と、多少同情的に聞いてきたので、延吉陸軍病院での手術後の経緯等を手短に話した。頷きながら聞いていた彼は、再び傷の周辺に手を押しやり、「腹壁ヘルニヤを起こしている」と診断した。私も自覚症状からして、既にそのようには思っていた。一応、残っている傷口に消毒液を塗布してガーゼを充てながら、「お前も大変だったな。それにしてもよく化膿しなかったなぁ」と云ってくれた。終戦後、初めて医者の診察を受けた安堵感と、多少とも同情的な言葉をかけてくれた嬉しさを胸にして医務室を出た。その後は、日曜日毎決まったように医務室に出掛けて、傷の治療を受けていた。その甲斐あって二センチほど残っていた傷痕も、思っていたよりも早めに癒えることができた。それは丁度、手造り煉瓦作業に入る前の六月中旬頃であった。

 表面の傷は一応治癒したが、入所直後についた藪出し作業がわざわいして、腹壁ヘルニヤを悪化させていた。開腹手術後縫い合わせをせず、自然治癒した弱い腹壁に腸が付着していたので、作業中力むたびに極度な脱腸状態となって腹が膨らみ、腸が引きつり鈍い痛みが常にあった。これは言わずとも森永軍医の診断通りであった。

 しかし、この診断があってからも、作業は一日として休ませてはくれず、労役の苦痛とともに耐えていかねばならなかった。私が森永軍医に対し不信を抱き始めたのは、二一年の初冬、伐採作業に入って間もない日曜日の一件からである。その頃、私は往復一〇キロもある雪道を歩いて伐採作業にあたっていた。長距離を歩くせいか、脱腸で膨らんでいた薄い皮膜の傷痕が、体を動かすたびに擦れて痛みが走っていた。私は、この症状の辛さを森永軍医に訴えたいと、医務室へ出掛けたのである。森永軍医は在室していながら、現れる様子もない。この日、彼に代わって現れたのは、今までは見かけたことがなかったソ連の美人軍医であった。彼女からはおそらく、「どうしたの」と問いかけてくるものと思い、私は理解できない言葉のやりとりの煩わしさを避け、すかさず下腹部を出して力を入れて、ヘルニヤの膨らみを見せ、「ここが痛い」と訴えた。下腹部に力を入れると、丁度女性の乳房のように膨らみ、擦れて薄赤くなっていたので、彼女は目を見張った。年齢恰好がまだ二十歳代とみられる愛くるしい女医さんは、きっと臨床経験も少なく、めずらしい症例であったのであろう。私の訴えが通じたかどうか分からないが、とにかく診断では作業を休めと言われた。このときはじめて、今まで森永軍医が私にとってきた扱いに不審を抱いたのである。私も常々これ程までに症状がはっきりしていながら、なぜソ連側に対し、三等位扱いの上申をしないのかと不審に思っていた。森永軍医は、ソ連側のご機嫌取りをし、同胞兵士に無理を強いて、一人でも多く作業に駆り立てているとしか思えなかった。顔では笑みを湛えながら、何を考えているのか信用が出来ない男だ。若し、そうしてソ連側に妥協して己の身を守り、祖国への帰還を待っているとしたら、まことに許せない行状だと思った。

 このラーゲリに来てからは、ソ連側は建て前上、申しわけ程度に何度か体力検査を行ってきていたが、彼は立会者として同胞のために、どれだけ寄与してくれていたか、これとても疑問が残った。医師としてさしたる診察もせず、ただ席を温めて居る結果が、同胞達の傷病悪化や極度な疲労衰弱につながり、今冬逝った数人の犠牲者が、若しもそうであったとしたら、彼の責任はまことに重大で許し難いことである。

 入ソして二度目の冬の十二月下旬、私は右下顎に激しい歯痛を起こし、一晩でかなり右頬が腫れあがった。その翌日は、所属作業小隊長に申し出て、その日の伐採作業を休んで宿舎で静養した。いままで一日も休まずに働き続けていたので、休んで宿舎にひとり取り残されてみると、何だか気が落ち着かなかった。ところが、歯痛がますます激しくなり、夕方仲間が帰ってきたときには、口を揃えて、「凄いな、随分腫れたな」と見舞ってくれた。その後三日間、宿舎で寝て痛みが和らぐのをじいっと待ったが、激しい痛みは発病後五日目に少しは和らいだが、腫れは依然として進行していたので、小隊長の計らいで医務室に入室させて貰って療養することになった。

 このとき対応に出た森永軍医は、腫れあがった私の右頬に手をやり、「随分腫れたなぁ」と云ったきり、診察室の奥にある小部屋に入れられた。この部屋にはベットもなく、板敷きの床にじかに座って過ごすことになり、これでは医務室と云うよりも、むしろ営倉入りの感じであった。森永軍医が持って来てくれた毛布を羽織り、へやの片隅に座り、隅に両肩をあてて体を支え、寝入っても倒れない姿勢をとって目を閉じていた。この日、森永軍医は私を入室させただけで、そのあとは顔も見せてくれなかった。私などはどうなろうとかまわないと云うようにさえみえた。夜七時すぎに、作業から帰って来た仲間のひとりが、夕食の黒パンとスープを持って来てくれた。作業で疲れているところを、わざわざ足を運んでくれた友情に感謝の言葉をかけてすぐ帰した。私の頬の腫れは、口を開くことさえも次第に困難なまでに症状が進んだ。持って来てくれた黒パンを小さくちぎって、スープに浸して柔らかくしてから、そっと口に押し入れそのまま飲み込んだ。それも三回ほどしか繰り返せなかった。残ったスープだけは、喉が渇いて我慢が出来なくなったとき、水替わりにスプーンで口に流し込んだ。

 医務室に入室して三日後には、右の下顎は風船を膨らませたように、腫れあがってしまった。その影響が左顔面にも現れ、腫れぼったくなり、目を開けていることさえ次第に辛くなってきた。十日程前までは、どうやら元気で働いていたのに、突然痛み出した右下顎の奥歯一本が、命取りになるとは思ってもいなかった。又病み出した翌日には、作業を休むことさえもためらっていた私が、こんなにも短い時間で運命が変わるとは、人の世の無常さを嘆かざるを得なかった。あれ程までに大きな傷痕を抱えてさえ、ここまで苦痛に耐えて生き延びて来ておりながら、瞬時に襲った一本の歯痛で、なぜ命を落とす結果になるのか、ただ、この悲運を神に問いかけたくなる心境にあった。

 私が、こんな心境に追い込まれるまで症状が悪化していても、森永軍医は朝夕一度づつ部屋の入口から覗き込む程度で、ほとんど放置状態にされていた。私は森永軍医のこの仕草に目こそやるが、もうどうして欲しいと頼む気もなく、さりとて、森永軍医の非情を責める気力さえも失いつつあった。歯痛が起った三日目あたりから、パンも満足に食べていなかったので、十日間で体はすっかり衰弱し、自力で体を支えることすら出来なくなりつつあることを覚えた。

 夜半、私はふと修行僧の即身仏を目に浮かべ、今のわが身がそれに近いとさえ思えた。又出来うることなら仲間誰でもいいから、祖国の母に俺がここまで頑張って生きて来たことを伝えて欲しいと、全く当てにもできない望みを心にしていた。発症一四日目の朝、私には座って体を支える力もなく、いつの間にか横倒しになっていたことに気づいた。一度目を開き夜明けを知ったが、もう姿勢を戻す気力もなく目を閉じた。昼近くと思うが、ふと首筋が濡れていることに気づいた。そっと手を充ててみるとぬるぬるとするので、夕べから力尽きて横に倒れて寝ていたので、よだれを流していたと思った。ところが、そのうち顎下から流れ出ていることをかすかに意識した。化膿して腫れ上がっていたところが自然に裂け、そこから流れ出た膿であった。私は一応処置してもらうべく、声をしぼって軍医を呼んだ。何事かが起きたかと森永軍医が急いで入って来た。私は声を出さずに顎を指さした。彼は即座に気づいて、膿盆などを取りに戻り、私の襟元を開いて処置に取りかかった。そして裂けた患部に手をやり、少し絞るようにして膿を出した。かなりの量が膿盆に流れ出た。裂けた傷口にガーゼをあて、膿で汚れた首や胸元を拭き取った後で、森永軍医はようやく口を開き、「化膿部が裂けてよかったな、これで楽になるぞ」と云った。私も気のせいか少し楽になったように思った。化膿根はやはり下顎の奥から二番目の歯根にあった。したがって口の中にも膿が出始め、ガーゼを噛んで膿を取り除くことになった。その後は腫れも徐々にひいて、三日後にはすこしづつではあったが黒パンを食べることができるまでになり、心身とも死線を越えた心境にあった。

 それから二週後、医務室を退出した。退出間際に傷を処置しながら、森永軍医は、「お前、よく助かったな。俺は、もう駄目かと諦めていた」と云った。私自身も死に向かっていることを意識していたから、森永軍医のこの言葉自体には抵抗がなかったが、化膿進行中彼がとった態度はまさしく「死人に口無し」で、平気であのように捨て置いたのだと思うと、許し難いものが胸に残った。そして、これからさきは何事があっても、ただ天祐に身を託して生きていくしかないと念じなら宿舎に戻った。