二七 煉瓦造り職人に変わる

 

 収容所から一キロメートルほど隔てたところに、かってロシア囚人が働いていたという煉瓦工場が、廃墟に近い姿で残されていた。私も作業に出るたび、遠くに見えるこの施設が、なにものかと思いながら眺めていた。遅い春が俄かに訪れ、凍てついていた地表が緩みはじめると、湿地地帯にある原生樹林は入山を拒み、誰も近づくことができなくなるのである。したがって、季節が我々の仕事を変えさせてくれて、主力が煉瓦工場に回った。おそらく収容者の全員が、初めて就く仕事だったと思う。私たちの作業小隊も、大工仕事が終わった翌日からこの作業に就いた。

 初めて煉瓦工場敷地に入って見ると、広大な敷地の中に、古びた工場建物と城壁のような崩れかけた窯場があり、いずれもかってロシア囚人達が酷使されていた形跡がありありと見られた。作業は二手に分かれて始められ、一方は、工場の製造設備を始めとし、生煉瓦の自然乾燥場、窯場等の修復をそれぞれ分担して着手し、他方では、粘土堀りとその運搬、そして煉瓦の手作りに入ったのである。煉瓦の手作りは、工場の修復が終わるまでの作業とは聞いていたが、工場には何らの機械設備も搬入されていなかったので、手作りは当分の間続きそうであった。

 私にとって、初めて目にした煉瓦の手造りが、何か面白そうに見えた。木枠で作くられた縦長の大きな樽の中心に、何枚かの板羽根がついた心棒が据え付けられ、この心棒に横軸をつけて、それを駄馬に引かせて回わし、樽の中の粘土を攪拌する仕組みになっているのであった。早速この木樽のような木枠の中に、既に運ばれていた粘土を上から投げ入れ、馬に引かせると、板羽根が螺旋条に回転して、粘土が攪拌されながら下がり、底に作られている出口から押し出されてくるのである。外目で見る限りでは、まことに幼稚な原理であるが、作業の流れは面白そうであった。私はふと故郷の澱粉工場の芋洗機を思い出していた。ちようどあの芋洗機を縦に据え付けたようなもので、その仕組み機能は全く同じものであった。

 この粘土練り機一基に総員四〇名ほどの作業員が、夫々の部署分けをして作業をすることになった。大半の者が、板で作った「レンガ型枠」に、練り上がった粘土を力いっぱい投げ込み、型枠からはみ出た粘土を糸針金で切り取り、別に用意してある板切れの上に型抜きする作業であった。これとて簡単な作業のように見えるが、いざ手がけてみると、そう簡単なものではなかった。最初のうちはなんど型抜きしても、煉瓦の形角が欠けてしまうのであった。これは、型枠に粘土を投げ入れる際の力の入れ加減で、形成が決まるという惚があったのである。私も、この煉瓦作りの部署についたが、やはり最初のうち何度か失敗を重ねたが、初日からどうやらレンガ職人の真似事が出来るようになった。しかし、この仕事も外目でみるほど楽ではなかった。三〇枚も打ち続けると、汗だくとなり呼吸も激しくなってくる。又その反面手馴れてくると、なんの変哲もない単純な手作業の繰り返しに、疲れを感じるのであった。この作業には一ヵ月半ほど通い続けた。今までの仕事に比べれば苛酷とはいえず、我々仲間内でもこの作業をそう嫌ってはいなかった。

 ソ連側は、今夏における煉瓦製造計画の中で、その計画遂行に焦りをみせ、随時我々の作業内容を変更していた。秋も迫った頃、煉瓦工場の機械設備の据え付けが終わり、近く機械による製造が開始されることになったので、作業班の主力が粘土堀りとその運搬に向けられた。この作業は昼夜三交代で行われ、私たちの作業班も、この粘土堀りと運搬作業に回わされた。

 シベリアの気候と自然は、遅い春と夏との季境がはっきり見分けられない。湿地地帯の積雪が融け、凍てついていた地表に越冬した谷地草の顔をみて春を知り、夏とは云っても春風に気温の上昇が加わっただけで、色香を添える野花などはひとつだに見ることがなかった。しかし、このような季節感をよそに、日の出、日の入りの大きな変化には、目を見張るものがあり、北シベリアの太陽の周期と気象の変化には印象を強くした。過ごしてきた暗い冬は日中が短く、午前一〇時を回ってからの日の出、午後三時ころには日没をむかえた。この裏腹に夏は、午前三時には日の出となり、日没は午後一〇時過ぎとなる。そのうえ日没後も空が薄明るく、白夜にちかい状態が日の出まで続くのである。

 三交代制がとられた粘土堀り作業で、私たちの作業班は三番片にまわり、夜間作業についたことがあるが、夜間作業といっても、夕食を済ませて陽のあるうちに出掛けて行くので、夜間とは時計の上のことで、夜半になっても手元が明るく、粘土堀りの作業には何らの支障もなかった。したがって、昼間の作業と同様にノルマが課せられていたのである。夜半の休憩時に、スコップの柄に腰をかけ、白夜のような夜空を見上げていると、かって想像もしていなかった世界にわが身をおいていた。久遠の宇宙にただただ神秘を感ぜざるをえなかった。しばしは、自分が捕らわれの身であることも、祖国に想いを馳せることもなく、神秘の宇宙と向き合ったままであった。午前四時過ぎになり、最終積み込みのトロッコを工場まで押して来て、一日の作業を終えて宿舎に向かう。朝帰りの足で直ぐ食堂へ立ち寄り、相変わらず涙が出るほど少量の朝食をとり、宿舎で眠りにつくのであった。このように粘土堀りや、トロッコの後押しを三週間ほど続けた。ちょうど気候もよい時期であったし、そのうえ適当に手加減をしながら働くことができたので、大きな苦痛もなかった。監視兵も我々が体さえ動かしていれば、真面目に働いていると見てとって、何等干渉することもなかった。

 九月半ばから、煉瓦製造機械が稼働しはじめた。私たちの作業班は、製造機械から成形裁断されて送り出されてくる生煉瓦を、自然乾燥棚に運び込む作業についた。この作業は、一枚の板上に五個の生煉瓦を載せて送られてくるものを、トロッコに積込み乾燥場まで運び入れ、トロッコのレールの左右に、一五段づつ設けられている乾燥棚の奥から順次差し入れていく作業であった。この仕事は機械相手であるから、我儘は一切許されず、機械が稼働している限りは、休憩はおろか一息入れることも出来なかった。ソ連の煉瓦は、日本製の煉瓦に比べ一回り大きく、かなり重いものであったから、一枚の板に五枚の生煉瓦が載ると、かなりの重量となり、私の肩や腕にはきつかった。乾燥棚えの差し入れも、棚の低いところでは、さほど困難はなかったが、棚が次第に高くなるにつれ体全体に力が入り、それだけに疲れも倍加していった。ソ連側も作業内容を理解していたのか、一〇日間で他の作業班と交代になり、つぎは窯場にまわった。

 九月末ともなると、シベリアの風は冷たく、秋の気配も見せないまま冬に入った感じであった。私が窯場の作業に回ったときは、窯場の大修理も終わり、干し上がった「乾燥煉瓦の窯入れ」が盛んに行われていた。私達の作業班もこの仕事に加わり、乾燥場から運び込まれた干し煉瓦を、広い窯場の隅から丹念に、火がまわるように僅かな間隔をおきながら、たすきがけに積んでいくのであつた。一度に三〇万個を焼きあげる大型窯であったから、いったい何時になったらこの窯が満杯になるのかと、気が遠くなる思いであった。我々にとってはなにも気をせいてまでして積むこともあるまいと、気長に毎日毎日通い積んでいった。窯場があまりにも大きいので、蟻の土運びにも似た作業のようにさえ思えた。干し煉瓦の窯入れには、その後作業人員が増やされ、一〇月下旬にやっと窯を満杯にすることができた。最後の作業として、窯の搬入口を煉瓦で塞ぎ、窯の上部全体を煉瓦で覆い、その上に火山灰を三〇センチ程の厚さに敷き詰めて終わった。聞くところによると、我々が最初に手がけた手作り煉瓦は、乾燥をまって次々とこの大型窯の修復に使われたという。

 窯入れ作業のすべてが終わり、城壁のように巨大な窯場をじいっと見上げながら、今まで携わった一連の作業を思い遣る。冷たい春風の吹くなかで、初めて廃墟同様の工場敷地に入ってから五ヵ月間、色々な作業部署で、多くの同胞達が流した汗の結晶が、いま此処にその成果を集積させて一段落したかと思うと、たとえ敵国のものとはいえ、ひとしお感慨深いものがあった。ソ連側の作業監督の点検が済み、偶然にも最初のラーゲリに入ってから、丁度一年目に当たる十一月一日に窯の火入れが行われた。窯の両側にある一〇箇所の焚き口が赤々と燃えた。

 火入れしてから幾日かたった頃、私も一日だけこの窯焚きの仕事に就いた。冬期間に切り出してあった落葉松の薪材は、ひと夏乾してあったせいか、ものの見事によく燃えていた。窯の上に上がって火の回り具合を確かめると、三〇万個の煉瓦が滝口の炎と同色に真っ赤に燃え続けていた。煉瓦窯の上から周辺を見回すと、周辺は既に厳しい冬景色に包まれていた。今年はほんの短い秋だけ稼働した煉瓦工場と乾燥場が、時折白く舞い上がる地吹雪のなかで、厳しい冬を耐えているかのように見えた。来年の六月には、また今年同様、此処で煉瓦作りをすることになるだろうと思いながら、煙草替わりに刻んだ向日葵の茎を日本新聞紙の紙切れに包み、赤々と燃えている煉瓦から火をとり、むせ返える強い煙を口に含み憩いのひとときを求めた。ふた冬目を迎え、次第に遠ざかる祖国に、諸々な想を馳せていた。