二六 作業大隊での起居と雰囲気

 

 働かなければ生きてゆかれないという、至上命題を背負ってのラーゲリ生活は、「苛酷な労働とそれを癒す睡眠」のただ繰り返しであった。以前のラーゲリでは、当てのない帰国に望みを託し、それを一途に日々悶々として暮らしていたが、労働大隊に来てからは、次々と課せられる苛酷な労働にどう耐えていくかで、いつも頭が一杯であった。殊に二月下旬、このラーゲリに入った翌日から課せられた伐採材の藪出し作業では、仕事と体力との死闘で、まさしく生命の極限状態にあった。このように苛酷な労働のもとでは、作業を終え宿舎に帰っても、友情を温める会話もなく、すぐ寝てしまう日々が続いていた。したがって、同宿の仲間達の名前すら覚える暇もなかった。

 このラーゲリでも表向きでは、旧軍隊の階級は一応廃止されていたが、まだ底流には階級意識が根強く残っていた。作業小隊長殿と敬称をつけて呼んでいるのもその現れであった。私の目にも、これは作業責任者に対する敬称とは思えず、明らかに元下士官に対する敬称としか写らなかった。聞くところによると、ソ連側も暗に旧日本軍の階級を残して、下士官に兵士を掌握させて就労させたほうが、作業能率が上がると考えていたという。しかし、このように底流にある階級意識は、やはり問題となって現れ始めた。作業責任者である下士官に直接問題があったわけではないが、作業責任者に就いていない下士官や古年兵達に、横柄な生活態度を温存させる結果となったからである。仲間うちでは、作業責任者である下士官にはそれなりに敬意をもって接触していたが、他の下士官等にはなんらの心遣いもなく普通に振る舞っていた。彼らはこれをねたみ、見せしめのためか、時折苛めに出ていた。しかし、彼らとて自分の行動が表沙汰になり、ソ連側に通じることを恐れてか、制裁的な行動は長続きしなかった。

 所内の生活施設も同胞の手で徐々に整備され、六月中旬には、収容所のすぐ横を流れる川向いに、小さな火力発電所が設けられ、宿舎内にも裸電灯がぶら下がるようになり、灯火の薄暗さと煩わしさから開放された。朝夕の食事も原則的には、食堂で済ませることに変わり、入浴も月に二回、そして、その都度被服を乾燥室で熱滅菌することになり、問題の虱も、入ソ後六ヵ月目にして、どうやら退治することが出来た。ただ、依然として水には不自由が強いられ、洗顔も洗濯も自由にはできなかった。

 シベリアの春は、一夜にして訪れるかのようであった。積雪が消えると、雪の下で春を待ちかねていた谷地草が、青々と一斉に顔を出し、すっかり春へと衣替えをしたのである。それは見事な自然の早業であった。いくら捕われの身とはいえ、春の訪れはやはり爽やかなもので、なんといっても極寒から開放される喜びは、北シベリアで冬を耐えた者にしか理解が出来まい。めぐり来た春の自然が、三重苦の一つを取り除いてくれたのである。