二五 俄か大工に早変わり

 

 「人間誰でも大工気と泥棒気のない者はいない」と云う諺を耳にしていたが、ソ連側は、日本兵士の教育水準の高さに目をつけ、日本兵士にはどの種の仕事でも、直ちにこなすことができると考えているらしい。したがって、個々人の持つ技量等は一切調べず、彼等の作業計画の中でのみ、その日作業量に見合う人員を、一方的に割り当ててくるのであった。三月末であの苛酷な伐採材の搬出から開放されたときは、本当に命拾いをしたと思った。そして出来得ることならば、二度と出くわしたくない作業だと思った。

 四月中旬に入り、気温も少しは緩み始め、太陽の位置からしても、シベリアの大地にもなんとなく春の気配がみられ始めた。日曜日以外は、一日たりとも休むことのない労働習慣が徹底していたので、あの苛酷な藪だし作業が終わった翌日から、収容所の外にある監督官等の居住住宅の建築に当たることになった。私にとっては大工仕事は全く経験のない仕事であったが、何となく興味がもてた。今起居している丸太作りの宿舎が、どの様な構造になっているのか、それらをつぶさに見たかったからである。そのうえ、「芸は身を助すく」の諺とおり、少しでも早めに技術的なものを身につけておくと、この先少しでも楽が出来るのではないかと思ったからである。ところが、作業に出る際に、営門で渡された器材は鋸と斧だけであった。作業指示では大工仕事と言っていたが、渡された器材から見て、これではまた伐採としか受け取れなかった。監視兵に連れられ、川を挟んでラーゲリの向かい側に建っている数棟の住宅の周辺まで行くと、収容所長が忙しそうに駆け寄り、手真似しながら此処の位置に住宅を建てれと言っているらしい。所長は既にこの作業に当たったことのある森本と顔見知りか、彼にその旨を懸命に指示していた。

 所長も日本語が分からないから、作業の指示には苦労しているように見受けられた。三〇名ばかりの我々仲間には、所長から具体的にどのような指示があったか分かる筈もない。あとは、森本という男の細かい指示で動くことになったのである。彼が要約して言うには、将校用の戸建ての住宅を建ててくれとのことであった。全員が森本を囲んで、建築の作業手順を細かく聞く。彼は、「俺も大工でない、此処へ来てから初めて見まねで覚えたぐらいで、まだ自信がない」と言うのである。結果的には、みんなで知恵を絞って建てようということになった。

 なにしろ出掛けに衛兵所で渡された器材が鋸と斧、スコップと凍土堀りの鉄棒だけであったので、これだけの機材で建物を建てるには、玄人大工でもかなりの工夫を要することは明らかである。

 初日の作業は、柱を建てる穴掘りと建築材の運搬で終わった。私は穴掘りにまわり、柱が建つ予定の箇所に、鉄棒で凍土を少しづつ砕いて堀り下げ、砕けた凍土をスコップで攫い出す、これを何度も繰り返しながら、柱材の太さに見合う深さ一メートルの縦穴を掘った。シベリアの凍土はさすがに硬く、鉄棒を突き刺そうとしても跳ね返り、その振動で手がしびれてくるのである。これは岩盤を堀割るよりも、むしろむずかしく困難な作業であった。したがって、柱の所要数だけの穴堀りに、一〇人で三日ほどもかかった。そのあと柱と桁、梁などの切り込みに入った。愈々初体験の大工仕事につくことになり、私はあらかじめ森本が墨付けした柱材に、斧で溝彫りをすることになった。切れ味の悪い斧で、木ツツキが巣作りでもするかのように、根気をつめて溝を彫り込む。日本製のノミでもあれば、この仕事も楽に作業能率があがるとつくづく思った。この原始的な斧での溝彫りには、それなりの技巧を要した。最初の一筋は力づくで取りかかり、彫りが終わるまでには、かなりの時間がかかった。この溝彫りは、所定の深さに均して彫らなければ、後で壁材の丸太が組み込めなくなるので、作業能率を度外視して時間をかけて彫り込んだ。

 ところで、この作業ではノルマがどうなっているのか、作業の監督に当たっていた所長が朝夕見回りに来るだけで、別に急がせるふうでもなかった。そのうえ、作業現場が収容所の近くであったから、今までの作業のように長距離を歩くこともなく、それだけでも体力の消耗が少なくて楽であった。その後、我々は所長に対し、大工道具の整備を願い出て、ノミと鉋が手に入り、どうやら作業も軌道にのり、三週間後には壁面の丸太組みが終わり、外形上は一軒の家が出来上がった。しかし、他の建築資材が予定通りに入って来ないので、内装や外回りの仕上げを後回しにして、我々の作業班だけで同じ造りのものを三棟建てた。私は自分が手がけた三棟の建物を眺めながら、何事もやれば出来るものだとつくづく思った。こんな荒ぽい大工仕事の中にも造形の楽しみが伴い、苦労を忘れて働くひとときがあったことが、なぜか不思議にさえ思えた。五月上旬になってから、待っていた板材などが入荷したので、早速内装等に取りかかり、手がけていた三棟を完成させた。その後は、煉瓦工場の修理作業に回わり、俄か大工も六月上旬をもってお払い箱となった。