二四 伐採材の藪だしに酷使される

 

 作業大隊では、入所の翌日から作業に駆り出されることになり、文字通り厳寒、飢餓、重労働の三重苦に悩まされる日々が始まった。私の配置が決まり、宿舎に入って間もない午後六時半過ぎ、伐採作業に出ていた同胞達が、満身に疲れを背負って帰ってきた。この宿舎では、作業小隊長以下三〇名ほどの人数であった。彼らは、留守中に入った新顔の我々仲間には、さしたる関心もみせず疲れの苦痛を耐えるようにすぐ体を横にした。その顔色と動作からして、彼らは疲れ切っていた。この様子を目の当りにした私は、これが明日からのわが身の姿かと、同情をよそに恐怖を感じ、果たして耐えることが出来るのかと心配になった。

 その翌朝六時営門で、歩哨が叩くつめたいレール打音で一斉起床となった。私にとっては、このような一斉起床は、延吉陸軍病院入院前の内務班生活以来八ヵ月振りの事であった。なにはともあれ、凍てつく厳しい寒さに耐えなければと、所持していた衣類のすべてを身に纏って出発を待った。今日は何処でどんな作業に就くのかと、昨夜見た仲間たちの様子を思い出して緊張を覚えた。午前八時になり合図のレールの打音に引きずり出され、作業小隊ごとに営門前に集合した。すると昨夕われわれの到着時に、営門で見かけた収容所長が、各作業小隊長に何やら忙しそうに作業命令をしていた。私が所属した小隊の村井小隊長は指示受けが終わったのか、我々にさしたる作業器材も持たせず、そのまま二人の監視兵に続いて営門を出た。私の前を歩いている仲間のひとりが、「今日も藪出しか」と呟くように云った。私と並んで歩いていた、昨日一緒に入った仲間が、「藪出しって何よ」と私に問いかけてきた。北海道の山村育ちの私には、この一言で作業内容の大方が理解できたが、都市出身者にとっては、耳慣れしない言葉であったようである。私も現場に着くとすぐ分かることではあったが、「伐採現場から木材を搬出道路まで運ぶことだよ」と手短に答えた。彼は、「ふふん」と言ったきり、その先は聞かなかった。この作業は、大抵は馬に引かせる作業であるが、此処では人手だけでするとなれば、どんな作業内容になるのだろうかと気がかりだった。営門を出て間もなく、結氷した川面を歩き進む。川幅はかなり広く何処まで行っても障害物があるわけでなく、まさしく天恵の林道であった。結氷した川面には三〇センチほどの積雪があり、既に圧雪となっているので、歩くには割りに楽であった。私はふと、「この川はどちらへ流れているのだろう」かと思った。川を挟んでゆったりと原始林が果てしなくが広がっていた。

 二時間ほど歩き続けて作業現場に着いた。川淵と思われるところに、既に搬出された木材が二メートルほどの高さに積重ねてあった。村井小隊長の指示で八名づつ組となって作業に当たることになった。

 作業現場で渡された道具といえば、麻ロープ四本と、俄か作りの担ぎ棒四本のみであった。私が入った組には、昨日までこの作業に当たっていた先輩挌が四人いたので、作業方法の万事は、この四人に教わりながら開始した。はじめに新参者の肩ならしと考えてか、四人づつ二組にわかれて、比較的細い木材の搬出に挑戦することになった。四メートル輪切りの材木の前と後にロープを輪かけして、そのロープに担ぎ棒をとおして二人で担ぎ、前後四人が呼吸をあわせて歩きだすのであった。もしひとりでも呼吸が合わないと、力の均衡を失い四人ともつんのめるのである。たとえ呼吸が合っていても、四人の足元が同じ条件下にあるわけではないし、第一体力も均衡していないから、一本の搬出にも何度か誰かがこけていた。傾斜地で咄嗟にこけると、全員に危険が及ぶ作業であった。私には多少天秤の経験があったが、全く経験がないものは、最初担い棒を肩に当てた途端、肩に食い込む痛さに悲鳴を上げる始末で、仲々四人の息が合わなかった。しかし、あくまでも四人一組の共同作業である限り、耐えなければ作業が進まない。昼時までの二時間ほどかかって、五〇メートルほど先の伐採現場から、経五〇センチ、長さ四メートル輪切りの材木四本を搬出した。初めての仕事であり、それがわれわれにとって精一杯の出来高であった。

 監視兵の合図で昼食が運ばれてきた事を知り、各自が受領に出かけることになった。私も今朝初めて腰にぶら下げた缶詰の空き缶を持って仲間と受領に行った。炊事係が運んできた橇の上のビワ樽から、スープらしいものを分配していた。駆けつけが遅かったため、大分あとのほうに並んで順番を待った。いよいよ私の番となり、炊事係に空き缶を差し出すと、炊事係は手際よく柄杓でビワ樽の中をかき混ぜてから、ひゅっと掬いあげて、私の空き缶に投げ入れるようにしてよこした。手にした瞬間かなりの重量を感じとり、やはり働くとこんなにも重量感のあるものを食べさせてくれるのだと微笑むだ。中味を楽しみに仲間と作業現場に引き返した。仲間たちと焚き火を囲み輪座して、手作りのスプーンでスープを掻き混ぜ中味を確かめたところ、文字通りスープばかりで、缶の底に僅かばかり、大豆の煮豆が沈んでいただけであった。新参の四人にとってこれは大きなショックで、「これで働けというのか」と力なく呟いた。私もこの餌食で働けとは、あまりにも酷すぎる。この中味は昼飯ではなく、休憩時の給湯にすぎないと思った。落胆している私たちにさらに追い打ちをかけるように、先輩の一人が、「このところずっと、この状態が続いている」というのである。私はふと昨夜作業から帰ってきた仲間たちが疲れ果てていた様子を目に浮べ、この給餌では無理からぬことだと思った。

 この日、午後からの搬出材木は、経一メートル以上のものばかりが残っていたので、八人体制で搬出することになった。前と後にそれぞれ四人で担ぐのである。これは重量が増すばかりでなく、八人の気合いが合わないと、一層危険が伴う。最初の搬出には、色々工夫をこらしながら一時間ほどかかった。午前中の疲れに追い打ちをかける、この巨木の搬出には、各自の体力を使い果たし、八人が雪中に倒れるように寝そべって、しばし動こうとはしなかった。「これはきつい。こんな仕事を一週間も続けると、体がぼろぼろになってしまう」と思った。こうして起き上がる力もなく寝そべっているところへ、何処で監視していたのか監視兵が現れ、「ブイストレー、ブイストレー」とさかんに追い立てるのである。やむおえず重い腰を上げ、夫々がまたロープと担ぎ棒を肩にして現場に戻った。

 次の搬出材にロープをかけ、担い棒を通してから、仲間八人の先輩格である木村が、新参の四人に対し、「実は我々の仕事には、ノルマがかかっているのだ」、「だが今まで、そのノルマは一度も達成したことがないし、又達成ができそうもない作業量なのだ」と力なく小声で言った。木村はさらに言葉を足すように、「我々はノルマにかかわらず、自分たちの体力に合せた仕事をするしか仕方がないのだ」と言った。新参者の私たちも同意して揃って頷いた。私自身の体力からも、この様な考えを持っていてくれる人が、身近にいることが力強く思った。

 この作業についてから一週間後の出来事であった。その日も相変わらず厳しい搬出作業を終え、疲れ切った足を引きずるようにして帰途についた。一キロメートルほど歩いた時、突然列の後部が騒がしくなったので、足を止め振り返ると、作業小隊の仲間一人が倒れていた。小隊の隊列は、一斉に足を止めて安否を気づかったが、監視兵の制止で、隊列を崩して駆け寄ることも許されず、停止位置でただ気遣っていたのである。倒れた彼は、間もなく息を引き取った。そのあと監視兵が一人残り、我々なかまも非情にも見返ることなく、監視兵に従い帰途に着いた。

 逝った彼は、仲間の誰一人にも見とられず息を引き取り、そして誰一人にも弔われずして、ただ一個の死体としてソ連側の手で処理され、この地の凍土に一人寂しく眠ることになるのだと、そう思いながら歩き続けた。聞くところによると、彼は最初からこのラーゲリで苛酷な労働に耐えていたそうで、遂に今日体力を使い果たして息絶えたのだという。又同胞の何人かが、このように既に犠牲になっているというのである。その夜、私はしばらく寝つけなかった。今夕の同胞の死が、どうも他人事とは思えなかった。自分とて何時あのように果てるか、なんらの保証もないわけである。彼には妻子がいたのではないだろうかと思いつつ追悼した。

 このような厳寒の中で、飢えながら重労働に耐え、一日延ばしに命をつなぐ日暮しが、そう長続きするとはとても思えなかった。しかし、こうした苛酷な伐採材の搬出は三月末まで続いた。この間、日を追って作業の要領こそ身に付いたが、出来高は相変わらずふるわず、ソ連側の監督官からは何度となくノルマ達成をせめられ、侮蔑の限りをつくした罵声をあびせられた。しかし、我々は黙ってその屈辱に耐え、互いにノルマを気にせず、絶対に無理をしない一点張りでとおしてきた。与えられた飯で体力の維持ができなければ、働きで調整するしか身の保全策がなかったからである。間もなく春を迎えようとしているが、我々には帰国の望みも全く絶たれ、そのうえ苛酷な労働を強いられ、日々が無気力となっていった。