二三 作業大隊へ転属になる

 

 寒波続きの日々と云うか、むしろこれが常態なのだろうか、かって体験したことがない、それは厳しい寒さが続いた。二月も半ばに入った頃から、誰が何処から入手した情報か知らないが、作業大隊へ転属する噂が頻りに出はじめた。愈々働かなければならない時期が来たかと、私も腹を括っていた。しかし、それが事実としたら、この厳しい寒さの中では、体力的にも果たして耐えられるか自信はなかった。二月十八日、遂に作業大隊送りの噂が現実となった。この日午前十時頃から、ソ連軍医の手で体力検査なるものが行われた。今までは傷病者扱いにして休養させていたのだから、診察があるものと思っていたが、なんと裸にさせられ、臀部あたりの筋肉をつまんでみて、弾みのあるなしを確かめて、それによつて一級、二級、三級とOK(オ・カー)に振り分けられたのである。傷病の程度など全くおかまいなく、いわゆる肉付きだけで、労働体力を判定したのである。一、二級は重労働に、三級は収容所内等の軽作業に、OKはさらに体力が回復するまで休養させることになっていたのである。この検査の結果は、殆どの者が二級に判定された。私も二級に判定され、重労働に就くことになった。ソ連側の考えは、我々を傷病者と認め休養させて既に六ヵ月を経過していたので、それなりに体力が回復しているとみての体力検査であった。しかし、この様な外形上の検査では、傷病があっても比較的体力回復の早い若者は、その殆どが重労働に就く結果となったのである。

 二月二十日の朝、ソ連側の指示で二〇〇名余りが、第一陣として作業大隊に向かうことになった。勿論、私もその一人に加わった。私の名前を読み上げられたときは、一瞬心も凍る恐怖が背筋に走った。今までのような短時間の使役でさえ、マスクを通して吐く息が瞬時にして凍てつく厳寒のなか、身を震わせながらやっと耐えていたのに、これからは毎日その状態の中で働くことになるのかと、泣き泣きの旅支度であった。一〇時頃、所長の指示で第一陣に加わった者たちが、所内の空地に整列した。樹海の上に遅い夜明けで顔を出したばかりの朝日が、舞い降る氷雪片をきらきらと照らしていた。

 我々の身柄を引き取りに来た数人の監視兵が、何やら大声で収容所長と話し合っている。彼らは、何処から迎えに来たのだろうか。足下から襲う寒さを、各自足踏みしながら出発を待つ。昨年十一月二日の夜、凍てつくような樹海の中で、ひっそりと佇む廃屋同然の収容所に入り、その後は、日々苦渋を舐めながらも、早や三ヵ月半を過ごした。今此処を去るとなると、過ぎし日々が、頁をめくるように思い出されてくる。手術後の傷が大半癒えた時間の流れも、また此処であったと思うと、このラーゲリ生活には、苦痛を超えた一抹の愛着さえ、不思議と感じるのであった。このラーゲリでの生活体験が、これから向かう作業大隊の生活手段に、なんらかの足しになってくれればと、願わざるを得なかった。

 監視兵は受領人員を確認してから、隊列の前後に三名がついて歩き出す。営門を出た隊列は、土手の様に高く土盛りした道路を左に曲がった。四ヵ月前、此処へトラックで運ばれて来た道筋を、更に奥地に入ることになつたのである。黒い樹海の中、一筋の白線のように延びている道路を、寒さに震えながら無気力に歩く。二〇分ほど歩くと、次第に体温も上がり幾分凌ぎやすくなった。しかし、行けども行けども続く樹海、これが話に聞いていたシベリア原生樹林かと、大自然のもつ神秘性と荘厳さに目を見張る。こうした大自然との闘いがいかに厳しいものであるかは、この先待ち受けている労働にかかっていると思いながらただ歩き続けた。私にとって、この様に長時間を歩き続けたのは、林口部隊での演習行軍以来のことで、かなりの疲労が伴い次第に歩幅も小さくなっていた。

 四時間ほども歩いただろうか、道路の両側が開けてきて、何やら建物らしきものが見え始めた。どうやら着いたらしいとほっとした。衛兵所に近づくと、かなり大きなラーゲリで、収容所内の建物は、今までいた収容所に比べ、規模も大きく整備されているように思えた。ラーゲリの周囲には木柵こそないが、バラ線が高く張り巡らされ、四隅にはやはり監視望楼が設けられていた。所内には人影もなく静かなところをみると、同胞達はみんな作業に出ていて留守なのだろう。

 衛兵所前で名前を読み上げられ、幾つかの組に分かれた。そして夫々の組が、このラーゲリで、既に編成されている作業小隊に組み込まれることになったのである。私の組の顔ぶれを見ると、また新顔ばかりの組合せであった。どうしてこうもよく入れ代わるのかと、寂しさを感じた。そうしているところへ、赤ら顔で大柄な収容所長らしき男が、若い眼鏡をかけた小柄な日本将校を連れだって現れ、即座に我々の引率責任者と何やら話し合いに入った。手真似を交じえた話合いは、我々を各作業小隊に配分する指示らしい。入ソ後、既に五ヵ月を経過していたが、日頃殆ど監視兵との接触もなかったので、いまだに彼らの会話は全く通じなかった。話がまとまったのか、日本側の将校が、組毎に整列して待っていた我々の前にやってきて、自分が当作業大隊長の杉山と名乗り、「お互いに頑張って耐えていこう」と言葉少なくねぎらいを受けた。私は夕暮れどき、営門前で仲間と別れ、収容所内で一番奥にある宿舎に入った。やはり全員が作業に出て留守であって、迎え入れてくれたのは、宿舎内に充満する労働の汗の臭いであった。