二二 腹の傷がほぼ癒える

 

 クラスキーナの山腹を発つ前には、腹の切開痕はまだ五センチほどあったが、その後の移送中は勿論、ラーゲリ到着後の二週間程は、腹帯を解く機会が得られず、腹帯の上からそぅと手を当てかばいながら我慢をしてきた。その間、体を動かすたびに腹帯が傷口に擦れ、常に痛みが伴っていた。ラーゲリに収容されてから、常に腹帯を解く機会を狙ってはいたが、夜仲間が寝ついてから解こうと思っても、暗いなかでは手元が見えない、日中は仲間たちが常にごろごろしているので、なかなか腹帯を解く機会が無かった。二週間後のある日、幸いにも私を残して周辺の仲間が収容所内での薪切り使役に出て行ったので、このときを待っていたとばかりに、早速腹帯を解いて傷を見た。傷口が思ったよりも小さくなっており、そして化膿もしていなかった。擦れているところだけが赤く腫れてはいたが、どうやら順調に癒えているので安堵した。暫く交換していなかったガーゼが、固く捩れていたため、それが傷口にふれ痛みが伴っていたのであろう。

 延吉の陸軍病院で強制退院を命じられたときは、この傷を抱えてどうしようと思い悩んだ。そして停戦の翌朝、医務室で薬が全く見当たらなかったときは、悲愴な思いであった。一時は自らの手で身の始末すら考えた程深刻な心境にあったが、あれから今日まで一度も医師の治療を受ける機会も得られず、傷口が化膿しないようひたすら祈る気持でガーゼを取り替えてきたのであった。そのガーゼも今では黒ずんで網の目の様になり使えるものも少なくなった。此処に来てからは、入浴のたびに貰った少ないお湯で、必ずガーゼを洗ってから体を洗っていた。このラーゲリには、病弱者を収容しているにも拘らず医務室の設備もなく、医師の巡回検診も一度も無かった。ただ強制労働を課さないだけのものであったから、私のように回復に向かっている外科患者はなんとか凌げるが、内科患者で進行中の病を患っている者はまことに気の毒であった。

 延吉陸軍病院における術前の症状は、盲腸炎手術後、盲腸の切除傷口が塞がらないまま腹壁に癒着していたため、切開痕に小さな穴が開いたままとなっていたので、そこからは時折り排泄物が出ていた。したがって手術は、癒着部分の剥離手術となった。陸軍病院での手術は一応成功はしたものの、術後二週間余で開口部が化膿したため、再切開して膿を出し、化膿部分が治るまでは、開口部の縫い合わせをせず、自然治癒を待っていた矢先に敗戦となり、強制退院させられたのである。その傷口は治癒してきたが、傷痕は手術前より更に大きく、上行結腸のかなりの部分が癒着していることが、自覚症状からも明らかで、大きく呼吸するたびに、大腸が引き吊り重苦しく鈍い痛みを感じるのである。しかし、生々しかったあの傷口が、よくぞここまで化膿もせずに治ってくれたと、傷痕をいとおしく思った。傷口さえ癒えてくれれば、あとは又何とか耐えながら生きて行こうと思った。よく子供のころから、「自分の体は自分で守れ」と云われていたが、最悪の環境の中で、この実体験をするとは考えてもいなかったことである。このたびは、まさしく自己の生命力挙げての闘いでもあったと云えよう。また私には幸か不幸か、幼いときから二度三度と傷病の危機に遭い、そのたびごとに奇蹟的にも潜り抜いた、強い運命に助けられてきたこともあってか、このたびも、その体験が精神的に大きな支えとなったことも事実である。寒冷地育ちの私にとっても、氷点下三〇度以下の極寒は言い様もない寒さであったが、この寒さが若しや天祐となり、化膿を防いでくれていたのかも知れないと思った。