二一 帰還の望み断たれた望郷の日々

 

 この樹海深いラーゲリに連行されたとき、騙されていたと思うと、大きな憤りを感じていた。私は、貨車がハバロフスクに着いたときから、この輸送先がシベリア行きにほぼ間違いないと諦めてはいたが、よもや、これ程までに厳しいところに連行されるとは、予想すら出来なかった。仲間うちには、「よくも俺たちをここまで騙し続けられたものだ」と云って、怒りをぶつけていた者もいたが、引率責任者の石橋少尉までが、このラーゲリに到着するまで、シベリア抑留を知らなかったとは思われなかった。延吉収容所を発つときの様子も、クラスキーナの野宿生活のなかでも、引率責任者でありながら、我々と直下に接触する機会が殆どなかった。きっと、知っていただけに、我々兵士との接触をさけていたのでないかと思う。またラーゲリに連行された翌日、明治節にあたり宮城遥拝後、軍組織解体の訓示の際、石橋少尉の態度は、必要以上に緊張感が見られたのも、敗戦による彼自身の感慨ばかりとは、我々には受け取れなかった。

 入所後の二週間位は、施設の修復整備に明け暮れ、それなりに気が紛れていたが、これらが一段落して使役に出ることが疎らになり、ラーゲリ暮らしも若干落ち着きが出始めると、「我々はこの先どうなるのか」と、仲間内で見えない先に一層不安を募らせ始めた。また、けして現在のような休養状態が長続きする筈がない、今にきっと強制労働に駆り出されると怯えていた。ところが、強制労働にも出る事なく年が明け、一月の中旬頃、収容所長からの指示だと云って、収容者全員に一枚の葉書が配られ、親族宛てに、「健在である旨のみを書いて出せ」との達しがあった。と云うことは、何処でどの様に生活をしているなどとは、一切書いてはならぬと云うことであった。私も逆らう事なく、貴重な一枚の葉書を、母宛に書きしるして係に渡した。しかし、この葉書についても仲間内では、あれ程まで巧みに我々を騙し続けたロスケのことだから、葉書は書かせただけで、果たして送り届けられるものかどうかは、疑わしいと言い合っていた。

 遅い日の出と早い日の入りで、一日が極く短く明け暮れ、冬の夜長は何時帰るとも当てのない故郷の話ばかりであった。私は国を出てからまだ一年足らずであったが、事があまりにも次々と急変する中で過ごしてきたせいか、今シベリアの地からのぞむ故郷の空は果てしなく遠かった。毎夜枕辺で語る話も区々で、最初のうちは、若い仲間は親兄弟、年配者は妻子等、夫々肉親の安否を案じる話題が中心であったが、日が経つにつれ帰還の望みも薄れ、たわいのない故郷の名物談義が話題となっていた。なかには、「俺は死ぬまでにもう一度だけ、おふくろが作った粽が食べたい」と、童子のように訴える可愛い奴も居た。確かに仲間の出身地は全国にまたがり、食生活や育った環境も大きく違い、話の種は尽きることがなかった。

 私も折にふれ、入隊からのこの一年を、次々と振り返ってみていた。なにしろ初年兵としての生活の中では、寸時のゆとりもなく緊張の日々を過ごしていたから、母親兄弟のことなどを深く想い遣る暇もなかったが、今こうして捕らわれの身とはいえ、時間的にゆとりがもてると、静かに国を出た時の状況から推して種々思いやる事が多かった。民主グループ発行の日本新聞によると、日本が壊滅状態になっているとはいえ、まさか田舎の真狩村までが焼失したとは思えない。また母や妹や義姉達の生活が、極度に変化しているとも考えられないが、海軍に招集後、静岡の海軍基地に居たはずの長兄はどうなっているだろうか、静岡の基地にそのまま居たのか、それとも、その後何処かへ移駐したか、その安否が気にかかった。在満招集兵のあの苦渋に満ちた心境を目の当りにして、長兄が一刻も早く母や妻子のもとへ無事に帰って欲しいと祈るばかりであった。又私が国を出る時に北支で転戦中だった爲義兄は無事だろうか。おそらく中華民国軍の捕虜となって、私同様に拘束を受け、北支の何処かの寒空の下で、帰る当てのない日々を、望郷の念に駆られながら耐えているに違いない。お互いに苦境に耐えて、故国の土を踏むことが出来るようただ祈るのみであった。朱鞠内でダム工事に当たっていた次兄のところは、米空軍の標的になる程までに、工事が進捗しているとは思えないが大丈夫だろうか。札幌に居る弟は徴兵されただろうか。在満者には六月に大動員がかけられたので、若しや徴兵検査日が繰り上げられ、徴兵されてはいないだろうか、検査が繰り上げられていなければ、徴兵前に終戦になっている筈である。又札幌市街の空襲は、どの程度であったか心配であった。

 他方、日本の国は、どのような形態で存在しているのだろうか。不可侵条約を結んでいたはずのソ連が、終戦間際に急遽侵攻して来た戦況変化、又交戦もしない部隊兵士までも、こうして捕虜として拘束しているのだから、祖国は米英軍に占領され、その絶対支配下におかれ、大きく変化が起きていることはほぼ間違いないと思われた。ソ連側が我々に読ませ始めた日本新聞によれば、東京はじめ大都市が壊滅状態にあると、大々的に取り上げられているが、このラーゲリまでの連行途中、監視兵が口癖に、「トウキョウ・ダモイ」と言い続けていたところをみると、国そのものはまだ存在しているように思えた。しかし、極寒の地で祖国への帰還を心待ちしている我々を、果たして国には迎えに来る余力が残っているだろうかと心細くなっていた。