二〇 第二三〇ラーゲリとその日々

 

 入所直後の日々は、厳寒のなか所内の施設造りに明け暮れていた。入所当夜、急遽張った幕舎も仮りのものではなく、翌日には天幕の裾に土盛りをして越冬体制に入ったのである。また既設の建物についても、随所に修繕が加えられ、どうやら当場凌ぎの起居が出来るようになったのは数日後であった。とは云っても、ただ暖をとって寝起きする場が得られただけのことであって、他の付帯設備などは一切なかったのである。入所の翌日朝早く、使役の動員をかけて手がけたのは、欠かすことのできない便所であった。所内の空地の片隅に幅四〇センチ、深さ七〇センチ、長さ一〇メートル程の溝を三本掘っただけのもので、何等の覆いもなく寒風の中で、この溝に跨り用便を済ますという代物であった。

 私は、この施設の状態と自然環境からして、このラーゲリが、予て耳にしたことのあるシベリア監獄だと思った。そして、日本兵捕虜を収容するためかどうかは計り知れないが、入所時の所内の建物の状態から見て、暫く空き家となっていたことだけは確かである。今私が起居している部屋の土壁もどす黒く汚れ、かって収容されていた囚人達の深い怨念が染み付いているようにさえ思え、一見不気味にすら感じられた。

 入所後一ヵ月ほどしてから、所内の片隅にひっそりと建っている小屋の手入れが始まった。実はこの建物は、浴場であったのである。私もこの使役に駆り出され手入れにあたったが、それは世にも不思議な造りであった。小屋の全体が七・三に区切られ、浴室と炊き口に分けられていた。浴室に足を踏み入れると、その造りがまた変わっていて、薄汚れた土壁で囲んだ室内の床半分に大きな川石が積み重ねてあるだけで、それは古い土蔵を思わせるものであった。これでどのようにして入浴するのかと、頭をかしげる代物であった。炊き口の方に回りその造りを確かめると、焚き口からの火がオンドル式に浴室に積み重ねられている川石の下に回り、石を加熱する仕組みになっていたのである。

 浴場の手入れと云っても、現場に足を踏み入れた私達には、いったい何処をどうするのか全く見当もつかない、廃屋にちかい小屋であった。どうするのかと手をこまねいていたところへ、所長と云う赤ら顔の将校がやってきて、黒ずんでいる土壁に石灰を溶解して塗れと云うのである。この作業は私も仲間にとっても経験のない作業であったが、三人寄れば文字の知恵で、云われた通り汚れた壁に、幾度となく石灰液を塗り重ねて、我々の判断でそれなりの仕上がりとなった。次に土間に積み重ねてある玉石の埃りなどを丹念に流し落とし、出入口の扉を修理して割当の作業を終えたのである。この浴場が使用開始したのは、二週間ほどたってからであった。

 入ソ後、我々が一番不自由していたのは水であった。クラスキーナの丘陵での野宿では、飲み水は勿論洗面も下着などの洗濯は一度もできなかった。まして貨車による輸送中は飲み水も与えられず、ただ黒パンをかじって過ごしてきた。水の無い生活が如何に大変であるか、身をもって体験させられた。また此処でも、所内に水源が無いことが分かり愕然とした。水は収容所から約三〇〇メートルほど先に流れている川水を使用することになっていたのである。入所後は、毎日一〇名づつ交代で、水汲みの使役に当たっていたが、これもまた大変な作業であった。私もこの使役に数回出たが、既に川面は凍っており、氷を割り、その下に流れる褐色の川水を樽に汲み入れ、雪道を水樽の重さによろけながら運んだ。ところが、樽に汲み入れた水が、三〇〇メートルほどの距離を運ぶ途中に薄氷が張る寒さである。二、三度運搬すると樽の内側にも分厚い氷ができるため、樽を湯沸かし釜に入れて氷を溶かしながら水運びに当たっていた。しかし、この水運びも十一月中旬過ぎからは、川の流水が全面結氷し、水代わりに川氷をツルハシで割り運搬することになったのである。したがって、こうして氷を溶かして作られた貴重な水は一切管理され、一滴たりとも個人の自由にはならなかったのである。

 ただ一つ恵まれていたのは、土地柄の薪であった。原生樹林の真っ只中の住人の特権とでもいうか、薪材には不自由がなかった。数日置きに一〇〇名余りの使役が動員され、二キロメートル程離れた樹海に入り倒木を取り集めて、二人組で担いで持ち帰っていたので、所内には常時一定量の薪材が確保されていた。何しろ極寒の地であるから、水つくりは勿論、暖房も命綱であり、一時も絶やす事なく燃やし続けなければならないのである。暖房としてはただ一基の鋳物製薪ストーブに頼っていたが、我々七〇名が起居している土蔵のような大きな部屋でも屋内温度はかなり高めに保たれ、部屋の中に居るかぎりでは、とてもシベリアの極寒の地に居るとは思えないほどの暖かさであった。

 入所後の暫くは、毎日のように所内施設の整備だけに明け暮れていた。しかし、それが一段落してからは、これといった労働にかせられることもなく、使役の割当が無ければ、朝の起床時から終日部屋のなかでゴロゴロとしていた。やはりソ連側は、我々を病弱者として取り扱い、体力が回復するまでの一定期間を静養させていたのであろう。しかし、我々の食事は主食として一食二五〇グラムの黒パンが与えられるだけで、時折、黒パンの代わりに赤いコウリヤン粥を食べさせられた。スープにはヒジキ入りの塩汁で、これがなんと二ヵ月程も続いていた。野菜らしきものは、このラーゲリでは、遂に一度も口にすることがなかった。そのためか、仲間内には便秘して用便時に出血する者が多く出ていた。

 飲料水は、全く思いの儘にならなかった。例の川の氷も、必ず一旦は煮沸させないと飲むことが出来なかった。たとえ沸かした後でも褐色の水は、とても素直に飲めそうもなかった。だから、喉が乾いて我慢が出来ないときには、各自が随時所内の空地から、汚れていない雪を缶詰の空き缶に詰めて来て、部屋のストーブにかけて沸かしてから飲んでいた。入所後三週目のある夜、語るにも哀れなことが突然起きたのである。その夜のスープも、岩塩で味付けしたヒジキ入りの塩辛いものであった。普段でも食後三〇分程たつと、だれでも喉が乾き水が欲しくなっていた。第二幕舎の仲間の一人が、木柵の内側に張られているバラ線を潜り、汚れのない雪を取ろうとしたところを、至近の望楼で立哨中の歩哨が発見し、すかさず逃亡者と見做し射殺したのである。そのころは、既に所内の空地は殆ど踏み固められ、汚れのない雪を手に入れることは、そう簡単に出来ない状態にあった。まして、夜雪明かりのなか急いで入手しようとすると、バラ線から外にある新雪に手が出るのが人情で、誰しも考えたくなるところであった。僅か空き缶一杯の雪を求める些細な行動が、かえって尊い命を失う結果となってしまったのである。敗戦後、常に虜囚の身に耐えながら、この三ヵ月間、厳しい生活を共にした仲間だけに、彼の死はまことに哀れそのものであった。ラーゲリ内における飲料水は、この様な悲劇を生む厳しいものであったが、そのほかの生活用水についても同様で、洗面は叶わず、ましてや下着などの洗濯は全く出来なかった。クラスキーナでの野宿で、既に発生していた虱が、暖房の余勢をかって大発生し、生活に不快感を覚えるばかりでなく、安眠も妨げる状態となった。いくら各自が爪で潰したくらいでは、とても駆除出来るものではなかった。やむなく下着を脱いで、ストーブの上で炙り落とす作戦に出たが、これとて一夜しのぎの気慰めにすぎず、駆除にはつながらなかった。

 十二月下旬から、舎棟毎、順繰りに月二回の入浴が出来るようになった。私は浴場修理の使役に出ていたので、入浴の仕方は大まかに聞いていたが、初回裸になってから驚いたのは、各自に割り当てられた湯の量が、子供のおもちゃのようなバケツに一杯だけの湯しか与えられなかったのである。先ず使役の釜焚きが、焼き石に湯を投げかけて発生させた蒸気で体を温まらせ、そのあと貰った僅かな湯で体を洗うのである。私も腹の傷をかばいながら、上半身のみを洗って出た。この入浴は、浴槽がないので、烏の水浴びの類いの比ではなかった。この様に我々のラーゲリ生活の中では、一事が万事悉く水には苦労がついてまわった。

 このラーゲリ生活に入ってからも、私が一番気がかりになっていたのは、やはり腹の傷を早く癒すことにあった。特に年明けからは、何時状況が変化して、作業大隊送りとなるか分からない雰囲気にあった。私の心の焦りに答えてくれるかのように、傷口は順調に癒えはじめ、二月上旬には、あと二センチほどまでに癒えてきた。ここまで癒えればあとひと息だと、とにかく嬉しかった。延吉の仮収容所で林口以来の戦友達と別れてから、私の周辺で起居する者が常に入れ替わり、心をひらく仲間に出会うことがなかった。常にひとり旅の心境で、まして私が抱えている傷などに、同情を寄せる者は誰一人もいなかった。また私自身も、あえてうわべの同情を受けようとは思わなかったし、互いに生きるのが精一杯であったから、恨みっこなしである。