一八 ホルモリン二三〇収容所に入る

 

 一〇月二九日朝、目覚めると貨車は依然走り続けていた。僅かに開かれていた扉の外は、雪の荒野が続き何等の変化も見られない。午前八時頃、突然貨車が徐行をし始めた。どうしたのだろうと扉の近くの仲間が、扉に顔をあてて外の様子を確かめると、停車場の引き込み線に入りつつあるというのである。そして間もなく貨車は衝突音とともに停車した。若しかすると、目的地に到着したのかも知れないと賑わいだ。私も外の様子を覗き見すると、かなり広い構内で、引き込み線が幾条も敷設されており、大きな駅に到着したと思った。停車後二〇分程経ってから、ソ連警備兵が日本の連絡下士官を伴って現われ、施錠をはずして扉を開いた。連絡下士官からは、「今日一日分のパンの受領使役五名」を出すこと、又「用便はこの周辺の敷地内で済ませること」の二点を指示して、次の車両へ移って行った。この指示で、どうやら貨車から出ることが許されたと受け止め、外の空気を吸って背のびでもしようと一斉に貨車から出た。先程覗き見したとおり広い構内と云うか、野っぱらに線路を敷設しただけで、駅舎らしい建物は見当たらない。きっと単線だから要所毎に、引き込み線を設けて運行しているのだろうと思えた。構内から大分はずれた所に、数棟の大きな建物が建っているだけで、他には何も目に入らなかった。私も五分ほど足腰を屈折させていたが、寒さに耐えかね貨車内に急いで入った。此処が目的地でないことだけは、これではっきりしたが、現在地が果たして何処なのか、誰も確かめようがなかった。

 三〇分も停車すれば発つものと思っていたが、なんとその日の日中は遂に動こうとしなかった。その間、戦車など兵器輸送の無蓋車等を連ねた貨物列車が、何本かが通過して行った。きっとソ連のことだから、我々人間様より大事な戦利品でも運び込んでいるのだろうと思った。警備兵が扉の施錠に来たのは、外が薄暗くなってからであった。間もなく発車するものと思っていたが、それから又数時間は閉じ込められたままで、発車したのは午後一〇時を過ぎていた。

 貨車が北上していることは明らかであった。仲間の中には、樺太対岸の何処かの港から送還されるのではないかと、あくまでも祖国送還に望みをつないでいた者もいたが、大半の仲間たちは聞く耳もたず眠りについていた。翌朝、明るくなってからも貨車は二時間ほど走り続けてから、また線路を軋ませながら引き込み線に入って停車した。昨日のこともあって、この停車には、仲間は左程反応も示さず、指示を待って、次々と下車して貨車周辺で用便を足していた。引き込み線の周辺は、ただ荒涼とした冬景色であって、目にとまる建物などは、なに一つもなかった。昨日の朝と同様に黒パンの配給を受け、貨車内で雑談しながらパンをかじり発車を待っていたが、遂に日中は動かず、発車したのは、夜遅く仲間たちの殆どが寝ついた後であった。

 十一月一日午前一〇時頃、貨車は徐行しながら、駅舎のかなり手前から引っ込み線に入って停車した。扉の付近に乗って居た仲間たちが、いち早く外の様子を見て「大きな街だ、目的地に着いた」と言い出した。私もこの仲間と入れ代わって外の様子を覗くと、仲間の言うとおり大きな街で、なだらかな丘陵に住宅が立ち並んでいた。若しかすると、仲間が云うように、ここが目的地かも知れないと一瞬思えた。停車後暫くして、警備兵が連絡下士官を従え、貨車の扉を開けに来た。しかし、下士官からは昨日の朝同様に、パンの受領と用便の指示しかなかったので、また此処が我々の行き着く処ではないことが分かった。

 私も貨車から出て軽く手足を伸ばしながら、隣の貨車の兵士たちが交わしている話に耳を立てて聞いていると、此処がハバロフスクだと云う。ソ連領に入ってから、始めて見る市街地であったので、私は興味深く寒風の中を、しばらく立って眺めていた。晴天下、雪に覆われた丘陵の街並み、三角屋根に一〇センチほど降り積もった雪景色は、北海道出身の私にとっては故郷に近づいた感じであった。私の立っているところからは、街の一角しか視界に入らないが、かなり大きい市街のようで、幾棟かの工場らしき煙突から煙が上がっている。確かハバロフスクと云えば、ソ連極東地域の主要都市であると聞いていたが、軍事的にも主要基地であろう。軍事機密上からか、今我々が乗っている貨車の停車位置も駅らしい建物から、かなり離れた引き込み線に入って停車していた。

 我々を乗せた貨車は、クラスキーナを発ってから夜間のみ走り、日中は名も知れぬ駅の引き込み線に入線して待機させられていた。そのためハバロフスク迄既に三日間を要している。しかもその間は、牛馬同様に詰め込まれ、寒さは体温のみで凌いでいた。この日もハバロフスクを発車したのは、夕方薄暗くなってからであった。仲間の大半は、もうなるようにしかならないと諦め、更に北上を続けている貨車の行き先など、もうさしたる関心も示めさず直ぐに寝入っていた。

 十一月二日、どうしたことか貨車は日中も走り続け、午後三時頃急に徐行しはじめた。そのとき、「ボゥー」という船の汽笛らしき音が、二、三度耳に入ったのであった。これを聞いた仲間達は、歓喜に湧いた。「やれやれ港に着いたぞ」と、まだ停車もしていない貨車の中で、気早に身仕度を始める者すらいた。しばらく徐行していた貨車は、駅近くの引き込み線に停車した。扉の近くにいた仲間が外を覗き、「大きな街だ、港だ」と騒ぎ立てるのであった。停車後一〇分ほどして、警備兵が来て貨車の扉を開け、いきなり「ダバイ、ダバイ」と、手招きしながら下車をせかせるのである。仲間たちも港に着いたと思っていたから、喜んでこれに応じ直ちに下車した。ところが、下車して直ぐ目に入ったのは、五〇メートルほど先の引っ込み線で、貨車からビートの荷下ろし作業をしている同胞兵士の姿があった。これはおかしいぞと直感した。しかし、思い直すように、若しかすると、引揚船の待機中の使役かも知れないと思った。白樺林の向こうに、製糖工場らしき大きな工場がみえた。なんだか北海道の景色に、あまりにも似ているので懐かしく思えた。

 私のこのような感情を断ち切るように、警備兵から整列の声がかかり、線路脇に整列して員数確認を受けた。駅舎らしき建物を避けるように線路沿いを歩き、何もない雪の広場に出た。そこには、かって延吉収容所からクラスキーナまで、我々を輸送した同じ型のトラック十数台が待機していたのである。私は、又此処からトラック輸送されると直感した。周囲を見ると左程高い建物こそ見当たらないが、やはり街はかなり大きく、先程下車した線路の反対側に、漁船らしき船が数隻停泊していたから、港があることは、ほぼ間違いないようであった。

 広場に全員が集合すると、我々仲間はやはり総員五〇〇名足らずで、引率責任者は、若い小柄な石橋少尉であることがわかった。雪の広場で足踏みしながら待っているうちに、此処がコムソモリスク・ナ・アムーレと云う所だと口づてに入って来た。私にとっては、初めて聞く地名であり、此処が地理的にどの辺りに位置しているのか全く分からないが、ハバロフスクを発ってから、北へ二〇時間も走り続けて来たから、緯度的にはかなり北に位置している所だと思った。陽は既に凍てつくような西空に落ち、頬を打つ風もひときは冷たかった。ソ連軍側には時間観念がないのか、いつも集合させておいて、平気で長時間を待たせるのである。延吉でソ連軍の監視下に入ってから、集合のたびに繰り返し待たされていたので、慣れてはいたが、この厳寒の中では耐え切れない苦痛が伴った。

 三〇分程してから、トラックへの乗車が始まった。警備兵に、「ダバイ、ダバイ」と牛馬のように追いたてられ、先頭車から次々と、鮨詰め状態に詰め込まれ、乗車が終わると同時に発車した。トラックは地吹雪を巻き上げながら雪路をひた走り、瞬く間にコムソモリスク・ナ・アムーレの街は小さく遠ざかった。雪路を三〇分ほど走ると、道路の両側が森林に変わり始めた。更に進むと、まさしく黒い樹海に入った。トラックは、白く細い雪路筋のみを残してひたすら走る。そして、既にシベリア原生樹海に入っていたのである。

 三時間ほど走り続けていたトラックが、既に日暮れて暗くなった樹海の中で停車した。小休止の停車と思っていたら、突然監視兵が現れ荒々しく下車を促すのである。その威圧的な態度は、今までの「トウキョウ・ダモイ」と、騙しつづけた連行中とは打って変わり、お前たちは捕虜だと、傲慢な態度があらわになってきた。急がされながらトラックから降りると、そこは五メートルほど土盛りした道路で、なんだか城壁に立っているようだった。目の前のトラックは、我々が下車すると直ちに走り去った。下車した時は、トラックに遮られて目に入らなかったが、道路の左手二〇〇メートル先に、大小四、五棟の古びた丸太作りの建物が、伐採跡地にへばりつくように建っていた。周囲の環境から見て、我々は此処に収容されると直感した。雪明かりに浮かぶ黒い樹海の中、ひっそりと建ちすくんでいる光景は、もうそこには、なにか過去の暗い怨念が漂っているかのようにさえ思えた。又、こんな数少ない建物の中に、五〇〇名近い我々を果たして収容することが出来るのだろうかと思った。

 我々は、自動小銃を肩にした数名の監視兵に先導され、凍てつく雪道を踏みしめながら収容所に向かった。出入り口に設けられている、衛兵所らしき小屋の前を通り抜けて中に入ると、建物を囲む四囲の木柵は、外目で見たよりもかなり高く、その木柵の内と外にバラ線が張り巡らされ、木柵の四隅には監視楼が設けられており、既に監視兵が自動小銃を小脇に抱え、銃口を所内に向けて立哨していた。やはり既設の建物には、同胞の半数程しか収容できず、他の同胞達は、急遽自らの手で四張りの天幕張りに取りかかった。暗い寒空の下で、急場凌ぎの天幕を張り終わり、全員が落ち着いたのは、午後十一時近くになっていた。入居仕分けにより、私は既設の建物に入ったが、古びた土蔵の様な粗末な造りで、入口から幅六尺程の土間の通路がもうけられ、その両側に二段仕切りの板間があるだけで、物置小屋同然の代物であった。

 この夜、薄暗い灯油ランプの下で、各自の寝場所が決められ、一息ついたのは既に夜半過ぎであった。我々は、ソ連監視兵の口癖、「トウキョウ・ダモイ」に騙され、そして裏切られた今、やり場のない心境と貨車等による長旅の疲れで、もう何も考える気力すらなく、配給をうけた黒パンをかじりながら、何時とはなしに寝入ったのであった。