一七 四三日間野宿に耐える

 

 ソ連警備兵から我々の行動範囲が示され、その範囲内で野宿することになった。引率下士官の指示で五名が一組となり、各組夫々が傾斜の緩やかなところを探してねぐらにすることになった。私にとっては、又新顔の組合せとなったが、幸いにも襟章が皆同じであったから、仲間同士が気遣をすることもあるまいと思った。

 早速五人でねぐら探しに取りかかったが、辺たりには樹木は勿論、草むらも見当たらず、結局寝ても転がらない傾斜の緩やかなところをえらんだ。でも、そこには枯れ草もなく地肌が出ていたので、早速枯れ草集めに取りかかった。ところが周辺の枯れ草は既に取り尽くされていたので、山肌をあちらこちらと一〇〇メートル先までも這えずり回わり、どうやら必要量の半分程度の量を集めることが出来た。早朝からあまりにも急変した出来事に疲れを感じていたので、とりあえず集めた枯れ草を地面に敷き、その上に毛布を広げて、車座に腰を下ろした。そして初顔合わせの自己紹介を済ませ、互いに寝食を伴にする仲間として助け合うことを誓い合った。五名のうち三名が私よりも年配者で、北海道出身は私だけであった。朝飯は各自の乾パンをかじりながら、今日からこの先寝食をどうするかを話し合った。結論としては、先着集団の生活状況を見聞きして真似ることになった。

 先着集団の野宿状態を外観すると、かなり区々ではあった。大半は斜面を削り取って毛布を天幕代わりに張って、雨露を凌いでいるのが多かった。聞くところによると、なかには既に二〇日以上もこの状態で寝起きしていると云うのである。又このところ朝夕めっきり冷たくなってきたから、この先が思いやられると云っていた。飲み水は、あの沼から汲んで来て沸かして飲んでいるという。飯は三日おきに支給される黒パンを食べているとのことであった。彼らの身なりはかなり汚れており、洗面をしていないから顔は薄黒く髭ものび放題であった。私等も髭はかなりのびてはいたが、今まで屋根の下に居たので、被服の汚れがないだけ恵まれていたと云える。先刻決めたねぐら近くまで戻ると、先刻まで我々の仲間だった他の組では盛んにねぐら造りをしていた。やはり斜面を削って地ならしをしていた。

 我々も回し使いのスコップがやっと手に入ったので、早速五人が肩を並べて寝られる幅に斜面の土を削りとって、先ほど敷いた枯れ草を敷き直した。次は雨露凌ぎに、毛布を斜面に張る工面をしなければならないが、支柱替わりの材料が全く見当たらない。さりとて、雨天のことを思うと、何としても探し出さなければならなかった。ひと休みしながら相談の上、二人は支柱代わりの枝木と薪探し、他の二人は例の沼へ水汲みに、残る一人がねぐらの荷物番をすることになった。私は支柱の材料と薪探しにまわり、年配の仲間と連れ立って丘陵を登った。二〇分程で丘陵の尾根まで登りつめると、その先はなだらかな起伏が果てしなく連なっていた。かって林口の野外演習で見た光景に、それとなく似ているように思えた。しかし視界には人家などは全く見当たらなかった。登る途中には、樹木らしきものは見当たらず、尾根づたいを当てもなく先へ先へとさ迷う様に探し回ったが、ついに支柱となる丈のある木は見当たらなかった。 薪材として一メートルばかりの枯れ木を拾ったり、細い芝木を折るなどして、どうやら互いに一抱えづつ集めたので引き返すことにした。陽は既に西に傾き、夕日を背にしながらねぐらに戻った。

 早速持ち帰った薪材の中から太めのもの四本を選び、午前に削り取った斜面の上辺部に支柱代わりに刺し込み、これに毛布の端々を結びつけて、斜面に沿わせて毛布を垂らした。中弛みして到底雨降りには耐えられる代物ではなかったが、支柱が手に入るまでは我慢せざるを得なかった。そのあと各自が持参していた一升足らずの米を出し合い、今後は共同炊飯をすることにした。今夕は何日かぶりで米飯を喰うことに衆議一決し、直ちに仲間二人が炊飯に取りかかった。茜空の下で輪座し、飯盒の蓋に分配した飯を手掴みで口にすると、塩気こそはないが、何日振りかの米の飯を味わいながら食べた。その後で、残り火で沸かしてあった貴重な白湯を分配し互いの健康を祈念し乾杯をした。

 落日とともに、宵闇は荒寥とした丘陵を静かに覆い始める。それはまさしく、多くの兵士達が今日一日山腹で蠢いた舞台に、自然が織り成す幕が下りるかのようでもあった。そして眼下にあった十数万とも云う兵士の野宿光景は闇の中に消えた。我々も宵闇に押し遣られるようにねぐらへもぐり込む。五人が体を寄せ合い窮屈ではあったが、昨日来の疲れと寝不足が眠りを誘い、野宿とは思えないほど早い寝つきであった。

 翌九月一七日の朝、現在地がソ連領のクラスキーナと云う処であることが、我々の耳にも達した。そしてその位置が、ウラジオストックの西側にあることで、我々はウラジオストック港から送還されると、仲間たちは一様に望みをつないだ。ソ連軍の監視下に入ってから、既に一ヵ月近くになる。延吉の収容所では、常時兵士集団の中にいたので、身の危険を感じることもなく、ただ祖国への帰還か、それともシベリア行きなのか、片時も頭から離れることはなかった。既にソ領内に移され、しかもウラジオストックの近くまで来ているともなれば、ソ連兵士が事あるごとに口にしていた、「トウキョウ・ダモイ」も、あながち嘘ではないかもしれない。

 今日は秋晴れで気温もあがっていたので、私は陽溜りを探して腹の傷痕の手当をすることにした。新たな仲間四人の前では、なぜか腹の傷を曝したくなかった。腹帯を解いて血が滲んでいる傷口のガーゼを、おそるおそる静かに剥がすと、唇を閉じたように腫れ上がった傷口が現れた。有り難いことに、心配していた傷口は化膿はしていなかった。傷口の大きさも延吉陸軍病院を退院した当時に較べ、二センチほど小さくなっていた。この調子で化膿さえしなければ、あと三ヵ月も経てば傷口だけは癒えるのではないかと自己診断した。太陽光線が傷口に消毒作用があると聞いていたので、土埃を避けるようにしてしばらく太陽に当てていた。この傷だけは、他の仲間よりも苦痛であり手間がかかった。ところで、私と一緒にトラック輸送されて来た仲間たちは、どこがどの様に悪いのか、外見からはよくわからない。覇気がないことだけは確かで、やはり人知れぬ苦痛を抱えているのであろう。しかし、苦痛があっても此処では如何ともしがたいことは、夫々が心得て耐えているのであった。私は色々と考えながらガーゼを取り替え、先程傷口から剥がしたガーゼを、ズボンの物入れに詰め込んで立ち上がった。心配していた化膿が免れていたので、内心爽やかに仲間たちの居るねぐらに戻った。

 その後は、水汲みと薪集めが日課となったが、私はガーゼを洗うため、積極的に水汲みに出ることが多かった。

 我々仲間にも野宿生活に入って一週間後、初めて黒パンが支給された。物珍しさが手伝って、早速切って食べてみた。見かけ通りふすまが入っているためか黒く、そのうえ気になるのは異様な酸味があることであった。どう割り引いてみても初めて口にする者にとっては、素直に頂ける味ではなかった。仲間の一人が、「これはなんという味だ、こんなもの喰えるか」と吐き捨てるように云った。実は我々の手元には、喰い延ばしてきた食料が三日分程残っていたから、誰も黒パンを食べようとはせず、暫くはねぐらの中に転がしてあった。ソ連人は、こんなに不味いものを食べていたのか。それにしても彼等の飯は、我々の飯盒炊飯に較べて手軽で効率的である。兵士らにとっては、日常生活の中でかなり手間が省け楽が出来ると思った。そのうえ聞くところによると、この黒パンはかなり日もちがするというから、戦時食には打ってつけの食料だ。我々が今食べている日本製の乾パンは日持ちこそするが、固くて食べずらく時間がかかり、食べ終わってもさほど満腹感がなく力が入らない。しかし、黒パンが不味いと云った、我々の強がりも四日とは通用しなかった。手持ちの米と乾パンが以外と早く底をつき、否応なしに黒パンを口にする嵌めになったのである。「郷に入れば郷に従え」で、二日間も食べていると、当初顔をしかめるほど嫌った酸味も麸も全く気にならなくなっていた。そのうえ、炊飯用の薪と水の消費量が減り、水汲みと薪集めに出る回数が今までの三分の一となり、かなり楽ができるようになった。

 野宿を始めてから一〇日が過ぎたが、幸いにも一番恐れていた雨に遭うこともなく過ごした。この地域は、きっと少雨なのだろうと思った。何度か曇り空を見上げ、今日こそは雨を覚悟しなければと思いしや、夕方までには雲は東に去って茜空に変わった。ところが野宿十二日目の朝、ねぐらを出ると空は厚い雨雲で覆われ、今日は雨から逃れることはまず出来ないと思った。夕方になっても雨雲は動きをみせず、低く垂れたまま宵闇に包まれた。野宿生活では、宵闇とともにねぐらにもぐるのが、半ば習慣となっていたが、その夜は空模様が気になり、何度かねぐらを出入りして雨を案じていた。雨が降りだしても、雨宿りする所が全く無いのだから惨めである。仲間の一人が、「まぁ鉄砲の弾が飛んでくるわけではないから、寝ることにしよう」と誘いかけられ一応寝ることにした。なにしろ五人分の毛布全部を用いて作った寝ぐらなので、ひとり勝手な行動は出来ないのである。したがって、寝起きは何時も殆ど同時にしていた。また少しでも快適に寝られるように心がけ、折にふれ敷き藁替わりの枯れ草を集め続けていた。しかし、なんといっても山肌の枯れ草は、その殆どが取り尽くされて絶対量が足りないので、必要量が集まらず、いつも上敷きの毛布が汚れない程度の補充に留まっていた。

 その夜の雨は、やはり我々が寝つかないうちに降りだした。しばらくは、天幕替わりの毛布を叩く雨音を、身を固くして聞いていた。又それが最善の策だとも考えていた。次第に雨脚が強まり、周囲の地表を叩く音がする。しかし我々にはどうすることもできないのである。そうしているのうちに、真ん中に寝ていたひとりが、「あれっ背中が冷たい」と言い出した。すると、脇に寝ていた一人が、「少々のことは我慢しろ」とからかうように云った。ところが、今我慢しろと云った張本人が急に、「あれっ」と声を上げ上半身を起こした。その弾みで天幕替わりの毛布の上に溜まっていた雨水が、どおっとねぐらに流れ落ちた。みんなが一斉に飛び起き、毛布を頭で支えてしゃがんだ。枯れ草の上に敷いてあった二枚の毛布を、これ以上濡らすまいと、急いで端の方から捲りあげた。下に敷かさっていた一枚は、削り取った斜面の土手から流れ込んだ雨水ですっかり濡れていた。雨は激しく叩きつけるような音をたてて降り続いた。こんどは天幕替わりの毛布から、雨水が浸透して滴が落ち始めた。このままでは体までが濡れてしまうと思い、他の四枚も濡れを承知で、五枚を重ねて頭から被り立ち膝で辛抱することにした。傾斜地を削り取った土手からは、次々と雨水が流れ込み、足もとに雨水が溜まり始めた。何とか排水をしようと、三人が頭と両手で毛布を支え、他の二人が手で排水溝を作り、ねぐらに溜まった雨水を排いた。雨脚は多少弱くなっていたが、空が白むころまで一晩中降り続いた。ずぶ濡れになった頭上の毛布が重くのしかかるなか、立ち膝をさすりながら一睡もせずに朝を迎えた。雨が上がったのは、夜が明け切ってからであった。ずぶ濡れの毛布から開放された時は、ほんとうにやれやれと思った。野宿の敵は雨だとは思っていたが、想像以上のものであった。東へ流れ行く雨雲を見ながら、晩秋の寒空の下、また降るであろう雨をどう凌ごうかと、なす術もなくただ思いやっていた。早速濡れ毛布を干すため、一枚づつ丹念にひろげた。辺りは山一面を毛布で覆ったかのようで、昨夜来の雨の激しさと、同胞の苦痛がうかがわれた。今日の晴具合と気温では、夕方までには到底乾き切らないであろう。今夜も、又濡れ毛布で過ごすのかと思うと寒気がした。

 この朝、黒パンの受領に出かけていた仲間の一人が、重大ニユースを持ち帰った。それは、「五日程前から送還が始まり、兵士集団が此処を発っている」と云うのである。我々のねぐらからは、そのような動きは全く見当たらなかったが、話によれば貨車輸送をしていると云うのである。この朗報は、昨夜来の雨でしぼんでいた我々の胸を沸き立たせた。そして皆が一様に、「愈々送還が始まったか」と感慨深く呟やいだ。

 朝飯の黒パンの分配が終わると、待ちかねていたように一斉に立ち上がり、話にあった貨車輸送の確認に出かけた。しかし、我々の行動範囲には限度があるので、結局は、遠目にその様子を見る程度に過ぎなかった。今まで足を踏み入れたことが無かった丘陵の稜線に立って裾野を見ると、確かに単線軌道らしきものが続いていた。でも貨車の姿は、全く見当たらなかった。ねぐらに戻る道すがら、兵士集団の野宿状態を見る限りでは、とても減っているとは思えなかった。なんだか、先程の喜びが半減したような気分で戻った。ところが、又新しいニユースが入ってきたのである。それは昨夜もあの雨の中、ある部隊が貨車で発ったと云うのである。一〇月に入ってからは、三日おきにかなり大きな集団が、しかも日中に動き始め、誰の目にも明らかに送還が決定的と見られた。こうなるとあとは送還の順を待つばかりと、心を浮き立たせていた。

 一〇月中旬にもなると、日中の陽ざしも冷たく、夜のねぐらは寒気に覆われ、軍靴を履いて防寒外套を着て過ごす日々が続いた。我々の野宿も既に一ヵ月余になるが、その日々は、山猿同様の野ぐらしで、夜明けを知って山野を這いずり焚き火の芝木取り、日暮れとともに土穴同然のねぐらにもぐる。洗面もしなければ水浴もない、陽だまりを見つけては虱とり、あてがいぶちの餌を喰らって野糞する。それは殆ど野性そのものの生活行動であった。また野宿ぐらしの疲れは、気力の減退を誘い、恰かも童子のように夜空の星に帰還の望みを託し、願掛けする程にしか働かない知性、自由が束縛され希望を失った人間の生きざまを如実に見せつけられる日々であった。一〇月下旬に入り、山腹の野宿が次々と消え、いまでは、丘陵の中腹に取り残された幾つかの集団のみとなった。延吉の仮収容所でも取り残された我々は、又此処でもどうやら最後の出発となるようであった。

 ところが、二日経っても三日経っても、我々には何らの沙汰も無かった。今までは何日かおきに出入していた筈の貨車も、ぷッつりと途切れたままである。そのうえ、寒気は日増しに強まり、日中でも雪がちらつき始めたのである。一〇月二五日の朝、目覚めると毛布の上に五センチほどの雪が積もっていた。昨夕までセピヤ色していた丘陵が、一夜にして白銀に衣替えして、晴天の陽ざしで冷たくきらきらと光っていた。積雪があってからは、日中の行動は極端に狭まり、ねぐらを出るのは寒さ凌ぎに足踏みをするときだけで、殆ど狭いねぐらで過ごすようになった。でも我々にとっては、何度か遭った雨降りよりは、直接体が濡れないだけに就寝時も気分的には若干楽であった。でも、仲間内では、「明日の朝冷たくなっているのは誰かな」と言い合っていた。こうして寒さに耐えながら、貨車の到着を待っていた。私は、今まで各集団が姿を消すたびに、何となく心中すっきりしないものが残った。あれ程多くの集団が次々と出て行ったのに、彼等からは帰還の喜びの声が一つだに聞こえて来なかったのは、いったい何故だろうか。やはり、「トウキョウ・ダモイ」は疑わしいと思い始めていた。

 一〇月二八日の朝八時ころ、突然拾数名の警備兵が、我々集団の野宿現場にあらわれ、「ヤポンスキー・トウキョウ・ダモイ」と盛んに急き立てるのである。雪中のねぐらに居た我々も突然のことで、毛布を捲って飛び出した。とにかく急げ急げの一本槍であったので、咄嗟に毛布についている雪を払い、各自が毛布の記名を確かめ、丸めて肩にかけ集合場所へと急いだ。集合した仲間は、勿論一緒にトラック輸送された一五〇余名で、どうやら全員が揃って、この野宿生活に耐えることが出来た様であった。

 野宿に入ってからは、じかに警備兵の顔を見ることが少なかったので、捕虜である実感からはしばし遠のいていたが、又こうして彼等と顔を突き合わせ、「ダバイ、ダバイ」と、羊の群でも追うように傲慢に言われると、身にしみる寒さのなか、俘虜の惨めさがひとしお感じられた。四列に整列して員数確認を受け、警備兵が隊列の前後について下山する。途中、既に雪に覆われた同胞達の野宿跡を、確かめるようにして丘陵を下がった。到着したところは、これまで何度となく確かめに行った丘陵下の天幕舎であった。そこには、既に三〇〇名余りの同胞兵士がたむろしていた。我々集団もこれに合流することになった。我々と行動を共にするということは、彼等もやはり病弱者仲間だと思った。こんなにも多くの病弱者がいたのに、何故最後まで野宿をさせたのか、ソ連側の送還方法が、どうしても理解出来なかった。そのうえ、集合させておきながら貨車の姿が見えない、又トラック輸送でもする積もりだろうか。それでも、我々を取り巻くように立哨中の警備兵達は、口を開けば、「ヤポンスキー・トウキョウ・ダモイ」と連発しているが、これも確かとは云えない。朝食に黒パンが与えられ、雪の戸外で立ち食いをした。警備兵が吸っている煙草の煙がつぅんと鼻をつく。私も八月一六日の夜、元の部隊で、これが最後の分配だと言って支給された一〇箱と、手持ちの七箱を大事に吸い延ばして来たが、野宿に入って三週目頃遂に吸いつくしていた。あれからもう三週間余り経っていたので、煙草がたまらなく欲しかった。

 なんらの連絡もなく立ちん坊して待つこと七時間余り、陽も西に傾いた頃、待ちに待った貨車が入ってきた。俄か作りの線路を軋ませながら入線して停車した。早速警備兵の指図で乗車することになった。貨車に近づいてみると、寄せ集めの車両編成で有蓋貨車の大きさが区々であった。貨車の中は、上下二段に区切られていた。これは俘虜輸送用に仮設したもので、上下段の間隔が狭く、かなり窮屈そうである。警備兵の指示で車両毎に乗車人員が割り振られ、私達の仲間はかなり後部車両だった。私は咄嗟に車輪からの振動を避けるため、先を競って上段へ上がった。乗車が終わると、警備兵が貨車の引き戸を締めに現れ、一五センチほど開けた状態で施錠して行った。一五センチほどの隙間は、貨車内の明かりとりと通気、それに我々の放尿口でもあった。乗車した仲間たちは、雪中を長時間立ちつくしていた疲れが出たとみえ、一斉に荷物を枕に横になった。なかには、「やれやれ、これでいよいよ帰れるぞ」と、早ばや喜びの声をあげている者も居た。これを聞いて笑っていた仲間たちの顔にも明るさと、心なし安堵の色が見られた。

 乗車後三〇分ぐらいしてから、貨車は連結の衝突音を立てながら動き出した。仲間たちからは、一斉に歓声が上がった。私も行き先はともかく、苛酷な雪の野宿から開放されたことが、何よりも嬉しくほっとした。昨夜も寒さで殆ど眠れなかったからである。発車後一時間ほどで、外が暗くなっていた。勿論灯りの無い貨車内では、もう仲間たちの顔すら見えない、互いに誰に語りかけるとなく手探りの会話が交わされていた。なかには、「貨車はウラジオストックへ向かっているのだろう」という。貨車は我々の期待をよそに闇のなかをただひた走りつづけていた。

 八時間ぐらい走った頃、貨車内の仲間が急に騒がしくなった。「最早ウラジオストック港からの送還はありえない」。それは、「こんなに長い時間かかる筈がない」、これはおかしいと云いはじめたのである。そのうち仲間の一人が、「この貨車は北斗七星に向かって走っているから、確かに北上している」と云うのである。私も、それが確かな判断であるように思えた。これで当初から心配していたシベリア行きが、ほぼ確定的となった。こうなっては、所詮成り行き任せの身柄であると目を閉じていたが、そう簡単には寝つかれず、かえって色々な思いが頭をかけめぐるのであった。二ヵ月ほど前、初めてソ連兵から、「ヤポンスキー・トウキョウ・ダモイ」と聞かされてから、内心ずっと否定的に受け取って来ていたが、今それが現実となってシベリアに向かっている。これから先のことは、日々新たに受け止め対処せざるを得ないと思った。北に進むにつれ夜の貨車内は一層冷たく、決して快適とは云えないが、野宿での雨雪から解放され、僅かながらの安らぎを得た仲間たちは、貨車の揺れに身を任せいつとはなしに眠りについていた。