一六 クラスキーナの丘陵に移される

 

 九月一五日朝七時前、我々仲間がまだ寝ているところへ、全く顔みしりのない下士官が現れ、「八時迄に朝食を済ませ、直ぐに出発出来るように身仕度をして待機しろ」と指示を残して出て行った。我々仲間は、あまりにも急な事で驚きと呆気にとられ、一瞬顔を見合わせた。私は咄嗟に、昨夕、一週間分に見合う米と乾パンが支給されたが、これまでに比べ多い配給量に不審を覚えていた。やはり、今日の移動準備であったのかとうなずいた。さて、行き先は噂通り、「祖国への帰還」か、それとも、「シベリア連行」なのか、先程連絡に来た下士官の口からは何等告げられなかった。昨夕見た収容所内の状態からみて、我々傷病者が最後の出発とも受け取れる。傷病者を遂に今日まで投げやりにしておき、そのうえ送還まで最後になったのが、何か割り切れない気持ちであった。

 私も支度を終え、他棟の様子を見ようとひとり外に出た。これで愈々、「延吉ともお別れか」と呟く。延吉市街には、遂に一度も足を踏み込む事なく、ただ陸軍病院の入退院の道すがら、緊張と恐怖のなかで遠くにある街並みを眺めただけで終わった。今日どの様な行程がとられるか分からないが、おそらく市街に入ることはあるまい。予告の八時前に、先程連絡に見えた下士官が、引率のため再度現れた。若しかしたら、今日からは、この下士官の掌握下に入るのではないかと思いながら彼の顔を見ると、彼自身も体調があまり良くないとみえ、覇気がなかった。

 指示通り、我々は八時を待って営門に向かった。途中既に空き家となっている幾棟かの収容所を横目にしながら、此処に居た大勢の兵士達は一体何処へ行ったのだろうかと思いやる。営門から一〇〇メートル程の手前まで来ると、七〇名ほどの兵士がたむろしていた。彼等の待機姿勢からして、我々と同様病弱者仲間であることが、ひと目で分かった。数名のソ連警備兵が、日本側の引率者と見られる若い小柄な将校を囲んで、何やら話を交わしていた。此処に収容されてからは、殆ど間近かに見ることが無かったソ連軍兵士の顔つきを間近で見ると、暫く遠ざかっていた敗戦の無念さが、又胸を締めつける。

 一五〇名程の集合が終わった時点で、ソ連警備兵による員数確認が行われた。やはり、一人ずつ我々顔つきを確めるようにして員数を数え終えた。員数確認が終わってから、またその場で一時間ほど腰を下ろし、この待機が何を意味するかは知る由もなく、警備兵の掌握下で身を堅くしていた。そうしているところへ、幌掛けの大型軍用トラック六台が、我々の横に列をなして停車した。初めて見た米国フォード社製の大型トラックの威容には、実に目を見張るものがあった。侵攻時に見た大型戦車の火砲に驚嘆していたが、今又、この怪物的な大型トラックに度肝を抜かされた。この様にみるからに機動性の高い輸送車両と相俟って侵攻して来たのかと思うと、何となく敗戦が当然の結末とさえ思えてくるのであった。

 ソ連警備兵直下の指示で、先頭車両から順次乗車を始めた。車両ごとに配置についた警備兵が口々に、「ヤポンスキー・トウキョウ・ダモイ、ダバイ、ダバイ」とせき立てられ、トラックに乗り込んだ。遂に私もソ連軍直下の掌握下に置かれてしまったのである。トラックの幌は、明り取りのため後部の幌を巻き上げ、他の幌は全部下ろしたまま発車した。私は最後部の車両に乗ったので、走行中移り変わる光景が視野に入りやすかった。トラックは、やはり延吉市内の走行を避けて、瞬く間に郊外へと走り抜け、延々と続く丘陵を縫うように、砂塵を巻き上げながら走り続けた。こうなっては行き先が何処であれ、今はトラックの揺れにじいっと耐えるだけであつた。時折凹凸の激しさに、胃袋が引きちぎられるような大きい立て揺れを繰り返していた。

 私は、六両編成のトラック群が巻き上げる砂塵の切れ間に移り変わる光景から、片時も目を離さなかった。二時間も走ったあたりから、日本軍が抗戦した跡が目に入り始めた。道路脇に残骸として放置されている一門の野砲、破壊され散乱している輜重車両などを見ると、此処で応戦した兵士達の生死が気になった。あくまでも抗戦して果てたのだろうか、それとも状況判断して撤収してくれたであろうかと、色々と想いやる。しかし、何れにしても、この戦跡から推して犠牲者が必ず出ていると思われた。砂塵の切れ間に遠ざかる野砲が墓標の様に見えてならなかった。六輌編成のトラックは、片時の休憩もなく丘陵を越え、荒野を走り続けた。今まで幾つかの極く小さな満人集落こそ目にしたが、市街地らしきところには、一度も出会うことがなかった。何処まで続くのかと思うほど、東北満州の未開の広大な土地には、ただ驚くばかりであった。

 既に三時間余りを無停車で走り続けた。クッション代わりに、各自荷物を尻に敷き、縦揺れに耐えていた。仲間も次第に疲れ、口数も少ない。その口数の少なかった仲間から、一斉に声が上がったのは、我々を乗せたトラックと、同じ方向の先を歩いていた、邦人婦女子等の逃避集団が目に入ったときである。トラックは、この邦人集団を避けるように、ややスピードを落とした。既に一月余の逃避行で、この人達の姿は見るも哀れな難民集団となっていた。我々は何はともあれ、咄嗟に乾パンを取り出し投げ与えた。瞬時にしてこの哀れな集団は、トラックが巻き上げる砂塵の中に小さく遠ざかった。車上の我々仲間は、瞬時眼にしたその情景にただ息を飲む。そして、遠ざかって行った悲惨な逃避集団に涙ぐむ。それが囚われの身の我々が、今なしえた精一杯の感情表現であった。

 私は、しばし涙した目を閉じ、いま目の当りにした悲惨な情景を、生涯忘れまいと脳裏に刻む。先程の婦女子等の集団は、何処かの開拓団の方々に違いない。国策に従い、東北満州に開拓団として入植した夫に嫁ぎ、ともに新天地の開拓に汗を流し、やっと明日への曙光を見え出そうとした矢先に、ソ連軍の参戦に備え、関東軍の根こぞぎ動員で招集された夫を送り出し、その後は不安の中で、子供等を育てながら日夜畑仕事を続け、まさに銃後を守っていたに違いないと思う。そうしたなか、このたびのソ連軍の侵攻に遭い、今こうして子供たちの命を危惧しつつ、苦難と闘いながら悲惨な逃避行を続けているのである。彼女等こそ、敗戦による最大の犠牲者である。どうか、背なと手を引く子供達ともどもに、無事の帰国を心から祈るばかりであった。

 車内の仲間たちは、トラックが東に向かって走行していると云う。確かに出発時には、トラックは太陽に向かって走っていたが、今ではやや背にして走り続けていた。仲間達もトラックの進行方向が、次第に気になり始めた。警備兵が繰り返し、「トウキョウ・ダモイ」とは云っていたが、現時点の走行位置とその進路からみて、どうしても朝鮮国境に向かって南下しているとは思えない。どう見てもトラックは東へと進路をとり続けていた。同乗の仲間は心配しながら、あれこれ詮索していると、年配の在満招集兵らしい一人が、「トラックは琿春に向かっている」と云うのである。これを聞いた仲間の一人が、「琿春経由で北鮮東海岸に出るのだろうかと」問いかけると、「その可能性はない」と云う。

 琿春街と云えば、ソ満国境に近い東北満洲唯一の主要街で、関東軍も国境警備基地として重要視していたところであるが、ソ連参戦直後にソ連軍の侵攻に遭い、抗戦に出た第一一二師団が最後まで頑張ったと、停戦の夜に悲壮な情報を耳にしていたのである。若し、停戦が数日早く行われていれば、この様な悲壮な犠牲が避けられたと思うと、胸が締めつけられた。我々は、砲声を耳にしながら交戦間際に停戦となり、今こうして存命している陰に、最後まで抗戦して果てた尊い犠牲があったからこそで感涙の極みである。トラックは我々の哀感をよそに、初秋の空の下、限りなく続く荒野を次々と後へ繰り出すように走り続けた。陽は既に地平線に傾き、西空は茜に染まる。薄暮は次第に大地を包み、トラックが巻き上げる白塵も薄暮に消え、久遠の陽が静かに沈んだ。

 外が暗闇になってからは、仲間の会話も少なく、皆目を閉じトラックの揺れに耐えていた。問題の琿春街に入ったことも誰一人気づかず、トラックが停ってから到着を知った。しかし、この停車はあくまでもソ連側の都合であって、我々には厳しい監視下で小便をするだけであった。寸時降り立った街は、寂寞として薄灯りが点在するのみで、そこには激戦の跡は見い出せなかった。一五分間ぐらいも停車しただろうか、六台のトラックエンジンが一斉にかかった。彼等はまるで物資輸送でもするかのように、無表情に次々と出て行く。仲間の一人が仕舞込んであった時計を取り出し、マッチの火明りで時計を見て、「今午後一〇時二三分だ」と云う。確かに暗くなってから随分と長く走り続けていた。

 私は、時計を上衣の襟に縫い込んでからは、太陽の位置で時を計りながら過ごしていたので、分刻みの時間感覚からは遠のいていた。だから仲間が丁寧に三分の端数まで教えてくれたことが、今の私にとっては、何かしら滑稽にさえ聞こえた。四時間程前まで仲間達が、微かな希望を抱き話し合っていたとおり、琿春を出たこのトラック群が、果たして北鮮東海岸に向かって走っているのだろうか、この暗闇の中では、もう誰も確かめようがなかった。琿春街を出てしばらくすると、同乗の仲間達は長時間の乗車の疲れが出始め、互いに凭れ合って目を閉じうなだれている。又なかには疲れ切って、仲間の膝を枕に体を横にしている者もいた。暗闇の空間に、ただトラックのエンジン音のみが残る。もう何処へ連行されようとも、誰一人として、これを詮索しようとする者はいなかった。私も一〇時間以上の乗車で、かなりの疲労を感じていた。今朝出発の指示があった後、取り急ぎ身仕度を整えながら、一〇粒ほどの乾パンを口にしたきり、その後車中では何も口にはしていないし、又食欲もなかった。そのうえ、私にとっては何よりも身動きすらできないすし詰め乗車が、疲労の元凶となり、車が揺れるたびに帯革で擦れる傷の痛みを帯革や腰ひもを弛めてどうにか耐えていたが、ずっしりと疲労を感じていた。暗い車中では、既に会話も途絶え仲間達は夫々に、今何を考えているのだろう。私は最早入ソは決定的と見て、この先、新たに展開する事態の中で、果たして生き延びていけるか、あてもないことばかりが頻りと頭を覆っていた。

 琿春街を出たトラックは、暗闇の中を一筋のライトを頼りに休みなく走り続けて既に数時間は経過しているとみられる。その時トラックは、急に凹凸の激しい斜面を登り始めたのである。その衝撃に仲間たちは驚き、車中が急に騒がしくなった。トラックは確かに路外へ出て、山野を走行していると思った。今度は斜面を下り始めた。仲間たちは、この波状的な揺れに、きっと目的地へ近道をして走っているのだろうと、詮索し始めた。斜面を下り切り平地に入って間もなく、トラック群は停車した。小休止かと思う矢先、警備兵が現れ、直ちに下車せよと急き立てるのである。此処が目的地かと一瞬呆気にとられたが、せき立てられるままに飛び降りた。六台のトラックは、申し合わせたようにライトを消して真っ暗闇である。ただ、足下の感触からして、草丈三〇センチほどの草むらの中に下ろされたことだけは分かった。あまりにも急であったので、トラックを降りた仲間たちは、しばし騒然としていた。そうしたなか、トラックは我々を置きざりにして、早々と立ち去った。

 此処がソ連軍側が考えていた目的地だったのか、それにしても、此処は一体何処なのだろうか、周囲には灯り一つすら見えない。そうこうしているところ、仲間の一人が「此処は海岸淵だょ」と声高に云う。これを聞いた仲間内でどよめきの声が上がった。暗闇の中、私は姿勢を低くして前方を見ると、かすかに水面が広がっていたのである。しかし、海岸渕なら波音がする筈だが、それが全くしないのはおかしいと思った。未だ名前すら聞いていない引率下士官から、「もう午前二時を過ぎているから、早く寝ろ」と云われ、夫々が草むらの茂みを探し、各自携帯の毛布にくるまって寝た。私にとっては、野宿は初めてのことであった。雑嚢を枕に横になると顔を撫でる夜風は冷たく、叢にすだく虫の音も絶え、秋の深まりが感じられた。又曇っているのか、夜空には星影も見えない。何度となく転がるように寝返りを打ちしばし寝付かれなかった。

 顔にふれた朝露の冷たさに、浅い眠りから目覚めると、辺りは既に薄っすらと白らんでいた。上半身を起こして周囲を見ると、丘陵の山合いに寝ていたことが分かった。そっと立ち上がって見ると、昨夜到着時仲間たちが海岸渕だと騒いだ水面は、周囲が僅か二キロメートルぐらいの小さな沼であった。私はまだ寝ている仲間達を気づかい、又毛布にくるまって横になった。今目にした光景を色々と考え合わせると、海は見えないし、此処まで連行されては、日本への送還は全く考えらず、やはり問題のシベリア行きになると、一人決めする心境になった。それから一時間ほどすると、仲間たちが起き出し、周囲の光景を見て騒然となり、又あれこれと詮索をし始めた。夜が明け切った丘陵の斜面をよく見ると、どの斜面にも群がる様に同胞兵士が野宿していた。これはいったいどういうことなのだろうか、延吉の仮収容所の数倍もの人数が集結されて居たのである。

 夜半過ぎ、トラック輸送された一五〇余名の仲間たちが目覚めた六時過ぎ、到着後から我々を監視に当っていた、ソ連警備兵による人員確認が行われ、直ちに沼の淵を発ち、警備兵の先導で丘陵を登り始めた。途中数え切れぬ同胞集団の野宿現場を通り過ぎたが、どの集団の兵士達も、既に馴れっこになっているのか、朝早い新参の我々の行動に対し、何らの反応も示さなかった。先着集団の野宿現場から一定の距離をおいて、新たに我々が野宿することになったところは、沼地から丘陵を二キロメートル程登った中腹であった。眼下には、先程まで居た名も知れぬ沼が、手に取るように見えた。そして、この沼を取り巻くように標高三〇〇メートルほどの丘陵が、荒寥として果てしなく続いているのである。当然問題の海などは視界には入らなかった。更に眼下をつぶさに見ると、沼から左手七〇〇メートル程の地点に、数棟の大型天幕が張られているのである。それはソ連軍警備隊の詰所か、それとも我々収容者の糧秣所とも思えた。仲間達も予想すら出来ない山野に捨て置かれた驚きの中で、しばし眼下の光景を見詰めていた。