一五 収容はシベリア行きの集結だった

 

 八月一九日、窓明かりで夜明けを知り、同僚達は起き始めた。私も体を起こし、そっと腕時計を見ると、まだ六時少し前であった。昨夜も着た儘の就寝なので、起きてからの身仕度は全くなく、くるまって寝ていた毛布を丸めて縛るだけであった。同僚達も鮨詰め状態の舎内にいるよりも、舎外で手足を伸ばしたかったとみえ、狭い出入り口を競って出ていく。私もつられるように舎外に出た。空は我々の気分とはうらはらに、果てしなく澄み渡り、延吉市街を囲む丘陵の稜線がくっきりと映えていた。こうして見ている限りでは、全く何事もなかったように平和で、誠に心地よい東満州の初秋であった。早朝ゆえか収容所全体が、殊のほか静かであった。収容所全棟の建物をよく見ると、まだ人影のない未収容棟がかなりあるようだ。衛兵所付近だけは、かなり多いソ連軍警備兵が動き回っている。さて、今日は、この収容所でどんな変化を見せるのだろうか、我々は昨日入所したばかりだから、何事もあるまい。

 しかし、此処でこの先どんな生活が展開されるかは、私にも皆目見当がつかない。差し当たって朝飯はどうなるのだろう。元の部隊兵舎を出発してからは、配給を受けていた乾パンのみを齧り、水を飲んで凌いでいる。洗面は八月一五日朝、延吉陸軍病院の病棟洗面所で洗ったきりである。もしも、この状態が続くのなら衣服についても、この先きっと着たきり雀となるから、今所持している衣服のひと品とて盗まれないように身に付けておくことが、最善の保全策だと思い始めた。私がこう考え始めたのは、ここ二日間における同僚たちの生活態度が、私の目には全く自己保身的にしかみえないのである。

 朝食は、飯盒炊飯をするかどうかで色々ともめたが、結局は松尾班長の指示で炊飯をすることに決まった。旧部隊兵舎出発の前夜、兵士各自に乾パンと抱き合わせに支給されていた三升程の貴重な米に手をつける結果になったのである。私も一度炊いておけば、三食は十分に賄えると思い、同僚達が炊き終った頃合いを見計らって、残り火をかき集め飯盒をかけ、炊き上がるまで草むらに腰を下ろし、収容所内の様子を眺めながら待っていた。当然のことながら、副食となる物は全く無かったから、部隊の連絡本部が、ソ連軍側に掛け合って入手した福神漬を、中隊連絡所で班毎に受領し各自に分配されたので、それを塩味にして朝食をとった。

 この日は、午前一〇時過ぎになってから、急に衛兵所付近が賑わしくなってきたのである。何処から連行されて来た部隊なのか、衛兵所前に続々と集結して来ているのである。先着の部隊が入り切らぬうちに、又次の部隊が入って来るという状態がほぼ終日続き、今朝見られた未収容棟は埋まり、午後六時過ぎには、広々とした衛兵所前の空地に幕舎が次々と張られたのである。今朝、収容所内がどう変わるだろうかと思っていたが、よもやこれ程までに、大きく変化するとは考えも及ばなかった。この様に膨れあがった兵員の存在感は大きく、我々兵士仲間にも何となく安心感が漂い、昨夜の様子とは打って変わり、夜遅くまで枕許が賑わしかった。

 翌八月二〇日も日本兵士の集結が依然として続いていた。昼過ぎ、誰が何処で入手した情報か知らないが、ソ連側は東満州地区の関東軍兵士を、すべてここ延吉収容所に集結させ、此処から逐次日本へ送還するらしいとの噂が、中隊内に広まったのである。兵士達のなかには、「シベリア行きなんて脅しに過ぎない」と云い、喜色満面であった。しかし、私にはどうもこの送還情報は単なるデマに過ぎないとしか思えなかった。むしろ敗戦となったあの晩に流れた「シベリア連行」の情報が確かに思えた。その訳は、第一に、シベリア連行の情報源が部隊中枢幹部からのものであったこと。今は、その部隊中枢幹部達が我々と同じ収容所に収容されていないこと。第二は、我々の服装がすべて冬衣であり、防寒帽、防寒外套、防寒靴まで持たせた身仕度であること。私には、この実態を否定して、日本への送還は到底考えられなかった。しかし、同僚達の中には、送還がもう決まったかのように、秋祭りに間に合うだろうか、これから帰還すると何々が食べられるとか、喜色満面のはしやぎようであった。喜びとは、楽しいことばかりを考えさせるもので、敗戦で幕となった祖国の悲惨さなどは、ひとまず彼等の脳裏から消え去っていたのであろう。

 その夜、突然中隊から連絡員が来て、「逃亡等は絶対考えないでくれ。到底逃げ切れるものではない。ソ連軍側の監視は厳重である。昨夜、逃亡と見做され射殺された者が出ている」と示達があった。帰還の情報に多少浮かれていた同僚達も、瞬時互いに顔を見合わせた。今わが身がおかれている、現実の厳しさに引き戻されたのであった。私には先程、逃亡とみなされ射殺された者とは、若しかすると在満招集兵ではないかと思えてならなかった。昨夜、元六四六部隊の集会所で目撃した在満婦女子等の悲惨な情景とが、どうも重なり合うのであった。

 私の所属班内にも、応召前の在住地は未だ聞いてはいないが、在満招集兵が相当数いるように思う。折にふれ顔馴染みがない同僚の顔ぶれを確かめていたが、私が入院する前とは半数は入れ替わっていた。彼等の中には、突然班内に加わった私を、むしろよそ者に見ている者さえいた。勿論、私の方も激しい状況変化が続いたこの四日間、彼等と行動こそともにしていたが、互いに名乗り事情を話す暇もなかったのである。停戦の夜から、厳しかった軍律こそ求められてはいないが、将兵の階級は依然そのままになっていた。退院したばかりの私は、この四日間、林口からの戦友以外の者は、ただ襟章で見分け、無礼がないように心がけて行動してきた。幸いなことに、現部隊も元七二五〇部隊と同様、兵士の殆どが初年兵で編成されていた。したがって、私の入院中に入って来た者も、その殆どが在満招集の初年兵であった。しかし、彼等の容姿からみてかなりの年配者で、兵役では後輩とはいえ人生の大先輩であり、この先彼等と単に襟章だけでかかわっていくことは大変失礼だと思った。この夜の同僚達は、浮かない何か諦めにも似た素振りで時を過ごし、就寝したのは夜半を回っていた。

 翌二一日昼前、噂通りソ連軍側は、各部隊所属の将校達を部隊から切り離し、別に収容したと聞かされた。ソ連軍側はなぜ将校の大半を我々集団から引き離すのか、その意図がどうしても理解出来なかった。勘ぐれば指揮系統の解体か、それとも兵士と別待遇をするためかと、仲間内でも色々と話が出ていた。したがって、その日の午後からは、各班長を頂点とした収容所生活となったが、我々にとっては何ら変わりがなかった。

 この日午後から兵士仲間では、自己の持ち物のすべてに記名が始った。その様子を傍らで見ていると、林口に入隊した翌日のことが、頻りと思い出された。あのときは古年兵に教わりながら、緊張した手つきで、支給品のすべてに指示通り縫い込んだものだった。こうして日々何をすることもなく、ただ身の回りのことだけで日暮しての起居が一週間続いた。その間折にふれ、ソ連兵が日本兵の腕時計とか、万年筆などを略奪しているとの情報が入った。班長からも彼等の目にふれない様に工夫をして所持するように云われたので、私も只一つの貴重品であった腕時計のバンドをはずし、上衣の襟端を裂いて縫い込んだ。

 八月二八日朝早く、変な噂があった。中隊の編成替えが行われると云うのである。今になって何故それが必要なのか、不思議に思えた。午前一〇時過ぎ、その噂が現実となった。どの段階で決定されたのか、班内から指名を受けた一〇名の者が身仕度して、それとなく無表情で出て行った。やはりソ連軍側の指示により、作業大隊の編成が密かに進められていたのである。しかし、我々兵士仲間うちでは、この編成替えは、送還のための編成の始まりと喜んでいる者も居た。この日の午後二時頃、かなり大きな兵士集団が隊列を作り、収容所の営門を出て行ったのである。その直後から、ソ連軍衛兵が作為的に流し始めたと思われる、「ヤポンスキー、トウキョウ、ダモイ」が収容所内に流布され、所内の兵士達は一様に、この送還の希望に湧き、「待てば海路の日和あり」仲間内には、陽気な気分に浸っていた。こうした明るい雰囲気のなかで、この日から隊列規模に大小はあったが、新たに編成替えされた兵士集団が、毎日のように営門を後に出て行った。これを日々見送っていた私の目には、どうしても祖国送還の途についていると素直に写らなかった。

 九月一日の朝、私の所属仲間達も編成替えになり、私ひとりが残留となった。出発間際になってから、松尾班長は何か思いついたように、私のところへ駆け寄り、「佐々木、お前はなぁー今の体調からして、とりあえず此処に残留することになった。後のことは、別途連絡があるから、元気で頑張れよ」と肩を叩き、先を急ぐように兵士を伴って発って行った。想像もしていなかった事が現実となり、また一人ぼっちに取り残されてしまった。林口に入隊以来、心から信頼していた松尾班長、生死は必ず共にすると誓い合った同僚達から、助力が得られるものと心から頼りにしていたが、いま私の残留すら気づかぬまま慌ただしく出て行った。敗戦がもたらした運命とはいえ、捨て置くように私が引き離されたのか、暫し茫然となった。行方も告げず出て行った同僚達のうしろ姿を見送り、人影が消え空き家となった舎内に戻ると、淋しさと新たな不安が強く交叉した。ただひとり明かり取りの小窓際に寄りかかり、目を閉じ高ぶる胸のうちを耐えた。

 暫くしてから気を取り戻し、こうとなっては、いつまでも別れて行った戦友の影を追うまい。所詮人間は一人で生きなければならないもの、先々のことは何事も運を天に任せて生きて行こう。これら胸のうちのすべてを振り切るようにして、朝飯とも昼飯ともつかぬ飯代わりに、雑嚢から乾パンを取り出し、なりふりかまわず思い切り齧った。食後も所内に引き籠もっていたが、ひとりぼっちの部屋は、やはり落ち着かず、外に出て付近を眺めていた。収容所営門からは、又一組の兵士集団が出て行つた。行き先は、やはり噂の「トウキョウ、ダモイ」だろうか。戦友という情報源を無くした今日からは、私の耳には噂すら入って来ないだろう。そうこう考えているうちに、私はふと心配になって来た。この収容棟に私が一人残留となっていることを、一体誰が掌握しているのだろうか。既に一人きりになってから三時間余りも経過しているのに、私に対し何らの連絡も入らない。まさかとは思うが、松尾班長の咄嗟の判断で、私を此処に残留させたのではあるまいかと思った。

 しかし、この心配も夕方になって解消した。中隊内で私同様残留となった数名の者が、身の回りの物を肩にして私の居る舎内に移って来たのである。これで、私もまだ掌握下にあることを知った。移って来た者のなかには、私に対し会釈こそしてくれたが、直ぐ体をいたわるように横になった。やはり、体調があまり勝れないと見受けられた。また、彼等は外が薄暗くなっても、誰一人として炊飯する気配すらなく、夕食はどうする積もりなのかと心配をしたが、その夜は誰も食事を取らず、そのまま寝入ってしまった。

 翌日から始まった我々残留組の舎内生活には、何等新たな展開もなく、むしろ日々灰色を強め、なかには終日寝たきりの者も居た。お互い急據寄せ集められた同士で、気心も分からないので、会話も少なかった。弱い者同士互いに助け合うべき筈の仲間内だが、夫々の体調が思わしくないためか、塞ぎ込んでいることが多かつた。

 この仲間には、私と同様に延吉陸軍病院を強制退院させられた者が必ずいると思う。終戦となった今では、あの時点で考えられたソ連軍の病院攻撃は回避されたのだから、本来ならば再入院させ療養を受けさせるべきだ。元部隊付の軍医は、この状況を承知していない筈はないと思った。敗戦には弱者の犠牲が、当然視されているのだろうか。現に今日まで我々傷病者に対し、軍医は勿論、衛生兵すら一言の声掛けも無かった。私自身も強制退院をさせられてから、既に三週間を経過しているが、術後の傷に消毒液の塗布すら叶わなぬ状態にあるのだ。陸軍病院退院時に入手した僅か数枚のガーゼを、何度となく交互に水洗いしながら使ってきたが、今では、そのガーゼも網の目の様にボロボロになっている。まだ長さ七センチほどもある傷が癒えるまでには、かなりの時間を要するだろうが、石鹸も使わず水洗いしたガーゼを傷に当て替えるたびに、化膿しないで欲しいと、ただ祈るばかりであった。

 所属部隊の戦友達が、行き先も告げず発ってから早や一週間以上も経つた。その間に毎日のように何組かの兵士集団が、何処へともなく収容所を後にして行った。八月下旬のひと頃には、収容兵士数が五万とも七万人とも云われていたが、その兵士集団も今は姿を消し、収容所内の人影は疎らになつていた。このところ、取り残されたという不安と淋しさが一層募る日々であった。九月も半ばに入ると、東北満州の朝夕は、吹く風もめっきり冷たさを増し、流れ行く雲が短い秋を押しやるようだった。