一四 仮収容所に収容される

 

 翌朝、五時前に仮眠から覚めた。内務班内では二、三の者が目覚めていたが、殆どの兵士は、昨夜の冷酒と騒ぎ疲れで、ぐったりと寝込んでいた。私は周囲の者に気遣いながら、昨夜半、途中で引き返した医務室探しを、今朝はなんとしても決行し、ガーゼと消毒薬を入手しようと、雑袋を肩にかけ中隊兵舎を出た。終戦となった今では、私のこの無断行動は、最早誰からも咎められないと思って、大胆に探し回ると、思いの外早く医務室を探し当てた。しかし、医務室からは、既に医薬品等はすべてが持ち去られ、室内は恰かも家捜しにあった様に荒らされ、機材も散乱していた。やはり、一足遅かったと愕然と立ちつくした。気を取り直して、室内に散乱していた、使い古しの包帯や三角巾等を拾い集めて雑袋に詰め込んだ。そして薬品庫や処置台の引き出しを片っ端から引き抜き、消毒薬らしきものを探し漁ったが、それらしきものは、遂に見当たらなかった。止むを得ず、引き出しの隅に散乱していた効能も分からない薬を掻き集め、雑袋の隅え押し込み医務室を出た。ソ連軍の監視下に入った早朝の兵営は、一見何事も無かったような平静さであった。八月下旬に近い東満延吉の朝は、もう秋の気配で微風が冷たかった。今日はこれから何処へ連れて行かれるのだろうかと思いながら内務班に戻ると、未だ半数以上の兵士は眠っていた。

 昨夜半は、あれ程までに緊迫した様子だったのが、今日は今朝から一向に動きを見せない、午前中は遂に何等の指示もなく、ただ不安の中で待機させられた。私は昼飯後に内務班の片隅で、今朝医務室で拾い集めて来たばかりのガーゼで、強制退院後初めて自分で傷の手当をすることにした。三日間解いていなかった腹帯を解き、血が滲んで傷に付着していたガーゼを静かに剥がすと、幅二センチ長さ一〇センチあまりの傷が痛々しく現れた。未だこんなにも大きいのかと、自分でも驚く程の傷痕であった。でも、心配していた化膿がしてないだけ救くわれた思いがした。傷の消毒をする術もなく、化膿しないことを念じながら、先ほど拾ってきたガーゼを当て腹帯を巻いた。私の傷の手当を横で見ていた戦友が、傷の大きさに驚き、「佐々木大丈夫か」といたわる様に声をかけてくれた。

 午後三時過ぎ、ソ連軍側の指示によるのか、中隊長から営庭に集合命令があり、各自が移動をこころして営庭に集合することになった。私も昨夜支給された防寒衣や食料などを持って営庭へ急いだ。聞くところによると、部隊全員の集合だと云うから、この様子では、愈々何処かへ移動するこになったと直感した。私にとっては、入院中新たに編成された、「電信第五五連隊八木部隊」の全態勢を初めて目にした。集合は、やはり、今まで通り各中隊ごとに整列した。私自身も昨夜抱いた弱気では、この先仲間について行かれないと、早めに兵舎を出て隊列に加わった。そして何気なく、次々と隊列に加わって来る仲間の様子を眺めると、各自が手にしている持ち物は、昨夜の支給品であったが、なかには、これから先の生活を見越してか、支給品以外の物を持ち出している者が散見された。

 集合が終わるまでには、かなりの時間を要した。二日前までの軍隊であれば、この程度の軍装で集合するには、一〇分とは要しなかったであろうが、いまや初年兵すら誰一人として駆けて来る者はなく、魂の抜けたかのように、だらだらと集まって来ていた。隊列の前方で立ち話をしている部隊の将校連中も、その様子からは何等の焦りも見られず、時折隊列の方に視線こそ流してはいたが、兵士のなすが儘で、気長に待っている様子であった。

 中隊ごとに兵員の掌握が終わると、八木部隊長が心なしか気落ちした姿で壇上に立った。入院中であった私にとっては、初めての拝顔であつた。八木部隊長は、我々兵士に対し、語りかける語調で、「これからはソ連軍側の指示で行動することになった。決して短慮の振る舞いに走る事なく、全員が揃って元気で祖国の土を踏むことができるよう祈念している」と言葉短く締め括って壇上を降りた。やはり、ソ連軍側を刺激しないように、配慮した隊長の言葉で、兵士が期待していた終戦に至った経緯などには、一切ふれようとはしなかった。遂先程まで、戦陣訓のなかで軍人精神は、「生きて虜囚の辱めを受けず」と陶冶されていた将兵にとって、敗戦で捕虜となった今、最早何等なす術もなく、無念にもソ連軍側の命令に従わざるを得なかった。その後間もなく、先頭中隊の隊列から順次衛兵所に向かって動き始めた。

 衛門を抜けてから、私は僅か二週間足らずしかいなかった馴染みの薄い兵舎ではあったが、振り返えりつつ自分の軍隊生活が、これで名実ともに終わったのだと思った。隊列は周囲の光景からして、二日前に通った延吉陸軍病院方向と同じ道を進んでいた。道すがら延吉市街に目をやると、在住邦人達は今どうして過ごしているだろうかと思いやられた。我々兵士は、こうして集団行動をとっているので、差し当たって身に危険が及ぶこともないが、邦人婦女子は生きた心地がしない恐怖のなかで過ごしていることであろう。この隊列にいる多くの在満招集兵は、残してきた妻子等家族の身の上を案じ、気がきでないと思う。いまはソ連軍の厳しい監視下にある身の上では、全く打つ手がないのである。行き先ばかりを案じながら歩いているうちに、先頭隊列が右に折れ、行き先が明らかに元六四六部隊の兵舎と分かった。なぜ、この近い兵舎に、わざわざ我々を移動させたのかと、不思議にさえ思った。ところが、間もなく耳にしたのは、ソ連軍側は我々兵士を他へ移動させ、その空き兵舎から武器は勿論、あらゆる格納物資を収奪する手段を取ったのである。その証拠立てするかのように、ソ連軍は我々を兵舎に収容せず集会所に詰め込んだ儘であった。我々は指示を待たずして、肩から毛布と雑袋を下ろし、膝をつき合わせるようにして腰を下ろした。

 暫くすると、集会所の外が急に騒がしくなった。何事が起きたかと窓から外を見ると、我々が居る集会所を取り囲むように大勢の在満鮮人等が赤旗を振りながら、嘲罵の威勢をあげているのである。彼等にとっては積年耐え忍んだ恨みにも似た胸のうちを、いま一挙に我々兵士に浴びせかけて来たのである。我々は既に捕われの身、屈辱こそ知れ、手出しの仕様もなく、この場はただじいっと耐えるしかなかった。

 こうした状況に、恰かも追い打ちをかけるように、延吉市街で既に迫害を受けたと思われる婦女子達が、更なる難を避けてトラックで次々と兵庭内に送り込まれて来たのである。その惨めな情景は、とても涙せずには見られなかった。敗戦がもたらす在外邦人がうける悲惨さを、如実に見せつけられたのである。これら婦女子達は、この先どうなるのだろうか。ひと時の難を避けるため、捕らわれた兵士集団の膝下に身を寄せたものの、我々兵士とて今夜にも何処へ連行されるやも分からないのである。夕暮れとともに舎外の騒ぎは一応収終したが、ソ連軍の厳重な監視下に拘束待機していた我々には、ただ重苦しい雰囲気にあった。

 移動待機が解かれたのは、すっかり暗くなってからであった。どうやら今夜はこの兵舎で過ごすことになったので、兵士達は競って体を横にした。どうせ庭にすら出ることも許されない拘禁状態にあるから、寝ているほかに術がなかった。兵士達が寝静まったのは、夜半過ぎであった。私は今朝目覚めたとき、今日は何処まで連行されるのだろうかと、そればかりを案じていたが、予想外に今日は短い行動で終わり左程疲れもせず、こうして戦友たちと枕をともにすることができ、どうやら一日を生き延びたと思った。でも、まだ腹の切開傷痕が引きつり腰が伸びきらない状態の私には、明日の行動が気になり夜半過ぎまで眠りつくことが出来なかった。

 翌八月一八日、晩夏の曇よりとした朝が明けた。、今朝は、もうあれ程忙しかつた点呼も内務班の掃除もない。そのうえ洗顔すら出来ないのである。朝食も一昨夜各自に支給された乾パンを、それとなく各自が勝手に食べている。私も昨夜食べ残した乾パンを取り出してかじった。野戦食用の乾パンを飯替わりに口にしたのは、入隊以来初めてのことで、どうも食事をしたという実感が湧かない。一〇粒もつづけてかじると、肩で一息ついて水を飲む程のものであった。でも、これが当面の命綱であり、兵士は各自に割当てられた限りある食糧であることを、十分に心得て大事に食べていた。

 さて、今日は何処まで連行されるのであろうか、やはり噂通りシベリアへ向けて出発することになるのだろうか、若しそうであれば、私にとってはまさしく命がけの長旅となる。一〇時過ぎ営庭に連れ出された。昨日と同様に、中隊ごとに隊列を整えた。別名、「マンドリン」と称する自動小銃を肩にかけ、誇らしげに我々の周辺を立ち回るソ連警備兵の姿がどうも気になる。我々は戦わずして奴らに捕らわれたのだ。それにしても彼等が肩に掛けている自動小銃は、実にすばらしい機能をもつ代物に見える。昨日まで内務班の銃架にあった小銃に較べれば、桁はずれの性能をもっているように思えてならない。ソ連軍側から指示があったのか、隊列の先頭が動き始めた。我々の中隊もただその後に続いた。仲間の中から、愈々シベリア行きかとの呟きが聞こえてくる。私は前を行く仲間の背中に目をやり、遅れまいと必死に歩き続けた。一時間余りも歩いたころ、先頭の隊列が停止した。休憩の気配もないので、私も気になり列外に出て前方の様子を見ると、なだらかな丘陵が拡がっており、その中腹に木造平屋の仮設建物らしいものが数多く見えた。後方の仲間から、「あれは確か満軍の兵舎だ」と云う声が聞こえた。それを聞いて、再度前方をよく確かめると、一部の建物の周辺に日本兵士らしい人影の動きが見えるのである。若しかすると、我々も此処に収容されるのではないかと直感した。十分足らず休止した後、隊列は動き始めた。さて、先頭中隊がどちらへ向いて歩き出したか気になり、再度背伸びして確かめると、営門らしき建物に向かって進んでいた。やはり此処に入ることになったと安堵した。どうやらこれで、今日も無理せず終わりそうだと思うと、急に元気が出て来た。何しろ四日前に陸軍病院を強制退院させられた体であり、手術後の傷がある程度癒えるまでは、どうしても無理を避けたかったのである。営門の前で、ソ連軍側による兵員の確認が中隊ごとに行われた。四列縦隊に整列している我々の隊列に分け入り、厳めしい面をいちいち縦に振りながら一人づつ数え、四人ごと数え終わったら入門させる、何とも非合理的な数え方をするのだろうと、我々仲間の嘲笑をよそに、彼等の員数掌握が続けられていた。

 中隊ごとの兵員掌握が終わり、丘陵の中腹に在る簡易兵舎に連行されたのは、入門してから二時間も後のことであった。建物は雨露が凌げる程度のもので、中央に狭い通路を挟んでその両側に板張りの寝床が作られているだけで、敷板の隙間から床下の雑草が見えるし、冷たい初秋の風が吹き上がってくる。しかし、何がともあれ、こんなに近くの収容所に収容されるとは、誰も予想していなかったので、喜んだのは私一人ではなかった。そのうえ若しかすると、この分ではシベリア行きは、当分の間は無さそうに思えた。中隊の引率幹部からの指示で、仲間達は元の内務班にまとまって入居することができた。仲間達は肩の荷を投げ出すように降ろし、先ずは安心一服と云うところで煙草に火をつけていた。私は肩にかけていた毛布を枕に直ぐ横になつた。今朝、元六四六部隊兵舎を出発してから、一時間余りの徒歩を含め、既に三時間以上も立ちつくしていたせいか、体全体に重苦しい疲れを感じた。でも、体こそ横にはしたものの、また何時どの様に状況が変化するか分からないので、私にとって唯一の情報源である同僚達の言動からは目を離さず、彼等が交わす会話には常に耳を立てていた。

 暫く体を休めた後で、外の様子を見に出た。付近にある幾棟かの細長い仮設建物の周辺では、入居したばかりの当部隊の兵士達が、何するとなくうごめいていた。先程員数確認を受けて通り抜けて来た収容所営門では、何処で捕まったのか三〇名足らずの兵士達が、疲れ切った足取りで入って来た。きっと何処かで戦闘配置についていたのであろう。

 私はとりあえず給水場と便所を確かめ、夕暮れの秋風に追われるように入舎した。元気な筈の仲間達も、なにすることもなく腕枕で横になり始めた。外が薄暗くなったが、夕飯の連絡は何等なく、今夜も自前の乾パンをかじって過ごすことになった。舎内には薄暗い裸電球が、二燈ぶら下がっているだけで、何をするにも手元が暗すぎるため、皆着衣のまま毛布にくるまって横になっていた。その情景は、ここ四日間の慌ただしい急変と恐怖から、一時逃れで得た平静さに見えた。終戦を知ってから、祖国がどんな状況にあるのか案じてはいたが、誰ひとりそれを口にするゆとりすらなく、今夜はじめて話題になった。特に大都市出身の兵士仲間は、果たして身内が生き残って居るだろうか、家屋はおそらく爆撃で焼失しているだろうと、暗い話しばかりが口々に繰り返えされていた。