一三 ソ連軍側の管理下に入る

 

 午後五時過ぎ、ソ連軍から武装解除の命令が出た。中隊の兵器係主任下士官が内務班を回って来て、すべての武器を衛兵所横に持って行くようにと指示があった。

 武器と云っても、我々の内務班には、先刻手入れして銃架に収めたばかりの僅か十丁余りの小銃と、兵士それぞれが管理していた帯剣しかなかったが、指示に従い運び出すことになった。私も咄嗟に兵舎外の状況を見ておきたいと、進んで銃架に架かっている小銃を小脇に抱えて兵舎を出た。営庭は想像以上に静かで、出歩いている兵士も少なかった。おそらく、ソ連軍を刺激しないように兵舎内に閉じ籠もっているのであろう。私の所属中隊兵舎から衛兵所迄は余り距離がなかった。他の中隊兵舎の様子を窺いながら、同僚と一緒に衛兵所に向かった。

 衛兵所前には、既に引き渡しが終わった小銃等が無造作に積重ねられていた。私達が早かったのか、それとも想像通り、当部隊には既に兵器装備がなかったのか、その数量はあまりにも少なかった。今兵舎を取り巻いているソ連戦車部隊の重装備と較べ、たとえ当部隊が通信部隊とはいえ、あまりにも貧弱で戦闘装備とはいえない。この装備の実態に、かってその存在を誇った関東軍末期の一場面をかいま見た気がしてならなかった。

 兵営外に見える延吉市街では、今何が起きているかは知る由もないが、居住邦人達はきっと狼狽し、身の保全策に窮していることだろう。延吉市街は、鮮満国境に近いため治安があまり良くないと聞いていたから、悲惨な事が起きていなければよいがと案じられた。他方、満人や鮮人にとっては、十数年に亘る関東軍の抑圧から脱した今、黙ってこの場を見逃してくれるとは、全く考えられないことである。

 内務班に戻ると、兵士達は既に諦めの境地にあるのか、それとなく身辺整理で気をまぎらわしている者、放心状態とまでは云わぬが、ベットで無造作に体を投げ出し、無心に煙草を燻らせている者、その所作は区々で、そこには、もうあの軍律厳しい内務班生活は全く見られなかった。それもそのはずソ連軍侵入後の部隊長命令は、「決して抵抗してはならぬ」との命令で抗戦を避け、兵士の生命を守ったことと、ソ連軍からの武装解除命令を中継ぎしただけで、そのあとは一向に何等の沙汰もないままであった。おそらく第三軍司令部は、ソ連軍側となんらかの接触中なのだろうと思った。

 外は、次第に晩夏の夕闇がせまってきた。志気をなくし先行きに不安ばかりを抱き兵舎に閉じ籠もっている兵士達には、今宵は薄っすら冷え込みを感じる。午後八時を回ってから、遅い夕飯となった。私にとっては二ヵ月振りに、内務班の戦友達と顔合わせた夕飯であった。ところが、今夕が軍隊生活最後の晩餐になるとは想像もしていなかった。降伏という無念の憂さをはらす酒か、それとも今夜とも分からぬ戦友達との別れの盃なのか、飯にあわせてかなりの酒が配られた。

 各班とも班長・古年兵等を囲んで冷酒を酌み交わしていた。言葉少なく無念を噛みしめるよう飲んでいた酒も、酒量が重なるにつれ、様相が一変して古年兵達が騒ぎ出した。古年兵にとっては、長年培われた「軍人精神の発露」か、降伏が許せなかったのであろう。初年兵達の心配をよそに、「無条件降伏とはいったい何事だ」と大声でわめきちらしているのである。なかには怒鳴るだけでは虫が収まらぬと見え、兵舎の窓ガラスを片っ端から叩き割って歩く者が出る始末であった。下士官達の制止も聞き入れず、そこにはかっての軍律の片鱗すら存在せず、上官の命令は全く通用しない状態であった。我々初年兵から見れば、これがかっての関東軍の為せる所作かと思えてならなかった。私も入隊後一度も口にしていなかった酒を、この世での飲み収めと思いながら、茶碗酒をほんの少し飲んだ。六ヵ月ぶりに口にした酒は瞬時に体中を駆け巡り、腹の傷が火照るようだった。

 今日もまた、遂に傷の手当をしないまま終わろうとしていた。せめて患部に当ててあるガーゼだけでも自分で交換しておきたいと思ったが、今日一日展開した状況下では、そのガーゼすら入手することが出来なかった。明日は何とか医務室に潜り込み、消毒薬とガーゼを探し出し、手当をしなければ化膿してしまう。

 午後一〇時過ぎになってから、突然部隊長命令が出た。「全員直ちに冬軍衣に着替えて待機せよ」とのことであった。そのうえ今夜のうちにもシベリアに向けて出発すると云う噂が出回った。酒の酔いも一瞬にして醒め失せた予想外の緊急命令であった。先刻酒盛りの中で、古年兵の一人が我々初年兵をからかって、「ソ連のことだから、お前たちはシベリアへ連れて行かれるかも知れないぞ」と、冗談を飛ばしていたが、その舌の根も乾かぬうちにほぼ現実となった今、心中凍る思いであった。各班とも直ちに班長の指揮で大勢の使役を被服庫へ差し向け、冬衣のすべてを中隊内に持ち込み、一斉に夏衣から冬衣に着替えた。そのうえ防寒帽子、防寒外套、防寒靴の果てまで、すっかり冬身支度をしたのである。そして当面、自活に耐えられるように、各自に毛布一枚と米、乾パンを若干携行させて、夫々の内務班で待機することになった。

 松尾班長は中隊長からどのような任務が与えられているのか、先程から何度か内務班と中隊事務室を行き来していた。そうこうしているうち、やや緊張した顔で内務班に現れ、我々に集合を命じ、「決して逃亡してはならぬ。又その策動に乗ってはならぬ。図門の鉄橋は既に爆破されている」と語調を強めて言い放った。確かに夕食後、中隊内でも逃亡を企てている者がいるかの噂を耳にしていたが、こうも直下に注意を受けると、やはりその動きが現実にあったのだろう。我々仲間には、在満の招集兵がかなりいたので、彼らにとっては、残して来た家族等の安否を気遣い居ても立ってもいられない心境だから、逃亡を企てても無理からぬことであった。

 そのうえ、松尾班長は、この先起きるであろう状況を判断してか、言葉を足すように、「これから先の行動は総べてソ連軍の指揮管理下におかれるので、途中落伍した者は、そのまま置き去りになっても仕方がない」と云いきった。この一言は、私にとってはまさに衝撃的であった。戦争に負け敵国の管理下にあるからと云って、こうも豹変して、兵士を投げやりにする考え方がとれるものだろうか。現に昨夕陸軍病院を強制退院させられた独歩患者兵士が居ることなどは、全く眼中にない話であった。私も強制退院を命じられたときから、先行き身の始末を考えてはいたが、今こうして申し渡しがあると、気が遠のく思いであった。もとより、ソ連軍との抗戦中での死は覚悟していたが、終戦となって状況が変化した今、戦友の助力も得られず、わが身を荒涼とした満洲の地で曝すのは、余りにも無念なことである。松尾班長が中隊事務室に戻って行った後、班内は一層騒然となった。なかには飲み残しの酒を煽る者もいた。私は消沈した気を取り戻し、何とか今夜中に医務室の在りかだけでも確かめようと思って内務班を出た。中隊の他の内務班も騒然としていた。それは戦いに敗れ士気を喪失した兵士の憂さばらしに過ぎないと思えた。

 私が中隊兵舎の奥の階段を降りようとしたとき、突然眼前の窓ガラス越しに真っ赤な火の手が目に入った。戻って窓越しに外の様子を確かめると、二棟先の兵舎が赤々と燃え上がっているのである。中隊内の兵士達は誰も気付いていないのか、それとも、今更兵舎が燃えようとどうこうないと云うのか、誰一人騒ぎ立てるものさえいない。私は暫く階段の踊り場で、火勢を見つめていた。燃え上がる火焔と黒煙で見え隠れする月影と、いま炎上し、敗戦落城の光景に胸打つものがあり、私はふと、「荒城の月」の歌詞を想い起こしていた。兵士等はまだ残り酒で盃を交わし、無念遣る方ない籠城の光景にあった。

 私は先程の班長の示達を思い出した。どうせ、この先戦友達の助力が得られず、途中置き去りになり野たれ死にするなら、一層あの火焔に身を投じ、身の始末を自らしようかと一瞬思った。しかし、祖国では母が私の帰りを待っているだろう。若し、この場で身を投じ命を断つたとの知らせが母に届いたら、芳勝は意気地なしだと嘆き悲しむであろう。なぜ、もう少し頑張ってみてはくれなかったのかと、さぞ悔しがるであろう。私は即座に弱気を打ち消し、ついて行ける処までは這ってもずっても行こう。今此処で死んでは、俺の生涯は何であったか、自らも問い難い。やはり、医務室を探し出そう。そして傷の手当だけはしておこうと、階段を降りかけた。

 そのとき、中隊内の様子が急に慌ただしくなった。集合命令が出たらしいので急ぎ内務班に戻ると、兵士達は慌ただしく身仕度を始めているのである。私もこの時刻になってから何処へ出発するのだろうかと思いながら、先刻支給されたばかりの防寒衣服等を纏めて待機した。一時間程たってから、石橋中隊長が中隊幹部等を従えて見えた。中隊長は兵舎中央通路に集合させた兵士に呼びかけるように、「ソ連軍側から、その後行動の指示がない。この分では、今夜は出発しないと判断する。直ちに就寝して明日の行動に備えておけ」、なお、「行先は目下のところ皆目見当がつかない。噂どおりシベリアへ連行されるかも知れない」と付け加えた。中隊内部では、きっと中隊長じかの命令でないと、押さえが効かないと見取ってのお出ましであったようだ。中隊長からは、終戦の経緯などは一切説明は無く、今ではただソ連軍側の指示連絡役に変わっていた。

 私の目には、中隊幹部等は今後ソ連軍側から、関東軍幹部として責任追求を恐れている様子を見取った。敗戦に拠る悲惨さは、むしろこれから始まるのであって、彼らとて兵士以上に険しい道を歩くことになるから、無理からぬことであると思った。中隊長じかの就寝の指示で、各内務班のざわめきも静まり始めたが、かっての内務班のような一斉消灯ではなく、兵士達は先刻整えた身仕度の儘、思い思いの行動をとっていた。私はかなりの疲労を覚えていたので、帯革を緩め体を横にして目を閉じた。