一二 停戦、無条件降伏を知る

 

 身を隠したものの緊張状態が解けず、熟睡に入れぬまま夜が明けた。時計を見ると五時過ぎであった。ソ連軍も夜間侵攻を避けたとみえ、砲音一つ聞こえない静けさである。仮眠をとった隠れ場を這い出し外に出て見ると、意外なことに兵士が営庭で書類らしきものを焼却しているのである。昨夕、川井見習士官が、我々兵士にあれ程厳しく灯火の扱いに注意を促していたのに、煙は兵舎の屋根よりも高く舞上がつているのである。これには、何か状況変化があったと直感した。私はすかさず隠れ寝している仲間にこれを伝えた。仲間兵士達は被服庫前でこの状況をながめ、やはり変化があったと口々に話し合った。火の扱いを気にして昨夕は煙草も吸っていなかったので、あの煙を見て早速煙草に火をつけた。

 何れにしても、腹ごしらえだけはしておこうと、昨夕炊事場へ一緒に出かけた一等兵と連れだって飯上げに出掛けた。昨夕炊事係に事情を話してあったから、朝飯は容易に受領することができた。二人で食缶をぶら下げ、昨夜同様に兵舎の軒下を通り抜け戻る途中、一個中隊程の兵士が隊列を組んで帰営して来ているのが目に入った。そこには緊迫した様子も見当たらず、演習帰りそのものだった。私はこのときはじめて、昨日放送があった終戦が本当だったのかと思ったり、いや別命による一時帰営かも知れないと、否定したりしながら戻った。この様子を飯を喰いながら仲間に伝えた。午前八時が過ぎても営内では際立った状況変化が見られず、我々仲間にも昨夜来の緊迫した緊張感が多少薄れてきた。砲声は、昨夜半から全く聞こえて来ない。午前一〇時になっても営内は静まった儘であった。我々仲間もやはり停戦になったと勝手な判断をし始めたのである。

 午後一時過ぎになってから、兵舎北側の丘陵で臨戦態勢をとっていた兵士達が続々と帰営して来たのである。これで我々の予測が現実となった。我々八名も話合いの上、夫々所属中隊へ帰ることになった。私は間島に移駐して間もなく延吉陸軍病院に入院したので、正直言って部隊の様子は全く分からず、ましてや留守中に部隊編成が行われており、自分の所属中隊すら分からないのである。一瞬、何処へ帰ればよいのか戸惑った。さりとて迷い子になっているわけにもいくまいと、とりあえず入院前の安保中隊の兵舎に戻るべく、緊張の一夜を過ごした被服庫を出た。中隊兵舎に向かう私の心中には、もうソ連軍侵攻の緊迫感ではなく、新たな内務班生活に戻る緊張感に変わっていた。入院前の内務班に戻ってみると、同僚兵士は戦闘配置から帰営したばかりで、班内は騒然としていた。数日間の戦闘配置で疲れ切っていたのか、軍装も解かず座り込んだままの者も居た。勿論、私の退院復帰などに気づく筈がない。私も暫し内務班の出入口で同僚達が落ち着くのを待った。暫くして私が居ることに気づいてくれたのは本間一等兵であった。「おぃ佐々木、帰ってきたのか。お前のベットは此処だよ」と手招きしてくれた。

 自分の軍籍が、この内務班に残っていたので安堵した。班長は誰だと聞くと、やはり松尾軍曹で、中隊は第三中隊で中隊長は石橋少尉殿、安保中尉殿は部隊の教育主任になって行かれた。又部隊長は矢木少佐殿だと、編成後の部隊の凡そについて本間一等兵が教えてくれた。しかし、内務班の兵士達はかなり入れ替って、新たに在満の招集兵が入って来たと云う。確かに班内には見かけない新顔の年配者が一〇名以上居る様に見えた。私は小声で、「ところで停戦になつたのか」と本間に念押しをすると、「そうらしい」と云うのである。私は咄嗟にまだ兵士達には終戦の事実が伝達されていないことを知った。私は林口以来の戦友本間一等兵にだけには、昨日、正午ラジオ放送で、「天皇陛下の終戦の詔勅」の放送があったことを手短に話した。そうして病院側はソ連軍の侵攻に対応し、我々独歩患者は強制退院させられ、昨夕、原隊復帰して来た事ことを話した。最初怪訝そうに聞いていた本間一等兵も納得したのか二度三度と頷いた。そうして大きな溜め息をついた。人一倍、軍人精神旺盛で幹部候補生でもあった本間一等兵の胸中去来するものはかなり複雑であったと思う。

 そうしているところえ、松尾軍曹が現れた。相変わらず班内を一巡するように目をやり、お前達銃の手入れをしておけと命じた。しかしその顔色は何か冴えないものがあった。私は松尾班長に復帰申告をするべく近づくと、彼は、「聞いている大事にすれよ」と、肩を叩いて下士官室へ戻って行った。銃架から僅か一〇丁ばかりの銃を取り出し、手分けして手入れに入った。私も傍らでじいっと見ているわけにもいかず、まねごと程の手伝いをした。この銃の手入れが、私にとつて日本国陸軍への最後の御奉公となった。

 午後三時頃、俄かに兵舎内外が騒がしくなった。ソ連軍が侵入して来たのである。抵抗は一切してはならぬとの厳命が飛び交う。兵舎内は一時騒然となった。兵士の動揺は様々で、今は為す術もないのに兵舎外に駆け出す者、ただ窓際で茫然と立ち、侵入して来るソ連軍戦車隊の様子を見つめている者、それはかって遭遇したことのない兵士の挙動であった。将校達は兵舎内外の兵士達に、「決して抵抗してはならぬ、暴挙に出てはならぬ」と懸命に声を掛けていた。その姿は誠に悲愴感そのものであった。

 私も窓際で北東部の丘陵から、次第に兵舎へ接近して来るソ連軍戦車を擬視していた。終戦になったことは昨日午後から承知はしていたが、いったいどういう形で結末が付くのか、全く想像すらできなかった。しかし、内心では終戦とは形だけのことであって、日本軍の全面降伏しか道がないと思われ、又これを否定する程楽観視はしていなかった。

 ソ連軍の戦車群が肉眼で確認ができる距離まで接近すると、大きな砲身を兵営に向け、兵営を取り囲むように展開して迫って来た。ソ連軍にとっては、まさしく威武堂々の侵攻であった。ところがよく見ると、先頭戦車の砲身の横に、白旗を掲げ持った日本軍将校が乗っているのである。即ち第三軍司令部が遣わした軍使であった。これでは停戦どころの話ではなく、やはり予感どおりの降伏であった。後続の戦車も砲身を兵舎に向け、あっという間に兵舎周辺を取り巻き監視体制をとったのである。ソ連軍の監視下に入って間もなく、兵舎外に出ていた兵士が悄然と肩を落として内務班に戻って来た。ソ連軍と何処で接触があったのか、腕時計とか万年筆を取られたとこぼしている兵士も居た。兵士達は停戦になったことは承知してはいたが、この様に降伏という不名誉な結末で終わるとは、誰しも思ってもいなかったので、兵士達はいちように狼狽するのみであった。殊に二〇年に入ってからの本国での厳しい経済生活状況や、日を追って敗色を強めていた海外の戦況を全く知らない古年兵達は、「何故こうなったのだ」とわめき散らしていた。しかし、大半の兵士は悄然と肩を落とし、兵舎外のソ連軍の様子をただじいっと見入っていた。また兵士達の心中には、この先自分達の身柄がどうなることか、全く想像もつかず暫し沈黙の時が流れていた。