九 間島陸軍病院へ入院

 

 六月一五日、朝の点呼終了後、松尾班長から呼ばれ、今日の午前中に間島陸軍病院に入院するよう示達を受けた。愈々入院かと溜め息をつく。朝食後、古年兵や親しい同僚達に、本日入院することになった旨を伝え入院の挨拶を交わした。「早く治して帰ってこいよ」との激励の言葉が身に沁みて嬉しかった。入院とはいえ自分には取り立て準備することはなく、付添いの衛生兵が来るまで、色々と考えながら内務班内で待機していた。今進められている部隊編成が終われば、果たしてこの内務班に再び帰って来られるだろうか、僅かな日数ではあったが、またこの新しく編成された内務班に戻り、今まで苦労を伴にして来た同僚兵士達と起居できることを願っていた。

 一〇時過ぎ衛生兵に付添われ営門を出た。白樺の新緑が萌えるように目に映える。しかし、かって期待した街の様子を伺うには、あまりにも街はずれで新緑の木蔭で見え隠れする白い建物だけが印象的であった。間島陸軍病院は、部隊から徒歩で三〇分程の割に近い所にあった。途中幅広い道路が丘陵に向かって延び、沿道には見るべき建物もなく殺風景な中を、初対面の衛生兵と連れ立ち、さしたる会話もなく黙々と歩いた。

 陸軍病院に入ると、付添衛生兵の手で入院手続きがとられ、直ちに身柄を病院側に引き渡された。その間医師は勿論看護婦の姿もなく、それはまるで囚人の収監手続きが終わって、身柄の引き渡しが行われた印象であった。間もなく病院側の衛生兵が白衣を持って現れ、即座に着替えを命じられ、私が脱いだ軍服などを小脇に抱えてそそくさと出て行った。初めて袖を通した白衣にどうも落ち着きがなく、歩けば足に絡みつく感じで、心地好いものとは思えなかった。

 衛生兵と殆ど入れ代わるように、年輩の看護婦が来て病室へ案内すると促され、長い廊下を看護婦の後をついてゆく。かなり奥まった病室に私を招き入れ、ベットの前に立たせて、周辺の患者に私を紹介した。私も緊張して、「お世話になります」と、四囲に敬礼をくり返した。この看護婦の声に、患者兵士が節度ある反応を示したことで、私にもこの年輩の看護婦が婦長であることに気づいたのである。婦長が出て行った後、私はベットの端に腰を掛け、広い病室内を一巡する様に目をやり、何床あるか即座に数え切れない大部屋の様子を確認した。ところが、大変な事に気づいた。病院生活と雖も階級が付いて回わっているわけで、精神的には内務班生活と、何ら変わらないことに肩を落とす。まぁいいゃ此処では飯上げも掃除もあるまい、この際おとなしく毛布を被って寝ていることが最大の防御であると考え、早速ベットへ潜り込んで目を閉じた。

 昨日今日と取りたてて体調が変わった分けでもないのに、こうして昼間からベットの中で寝ている不自然さに気迷いを感じた。それは近々切腹することすら忘れさせる環境の急変であった。暫くしてから、身潜めるように寝ている私に声をかけてくれたのが、右隣りの上等兵であった。二等兵の私が落ち込んでいるとでも見とってか、静かに語りかけてくれた。私の所属部隊が、「岩第二六七二一部隊」である旨を告げると、そんな部隊は知らないと云う。それもその筈当の私さえも、未だ部隊の輪郭すら聞いていない状況下で出て来たのだからと思い直して、林口の電信連隊に入隊して、最近間島に移駐して来た旨を説明して理解をして貰った。この上等兵と所属部隊が違っていたので、私も気分的に少し楽になった。上等兵は院内生活のあらかたを、朝の起床時の点呼から消灯時まで順を追って色々と教えてくれた。お陰で当面独歩患者としての病床生活が見通せる事ができたし、この様に親切な古年兵と巡り逢えたことを幸せに思った。

 昼食時に早速隣の上等兵に連れられ、院内食堂で昼飯を食べた。部隊の飯に較べかなりよい献立であった。食事時の同室の傷病兵の動きからして七割近くが独歩患者である事が分かった。そうして殆どの兵士者が古年兵で、二等兵は目に止まらなかった。食後は午後の静養時間に入り、私も人並みにベットに入り、今朝まで居た内務班のことをあれこれと考えていた。

 二時過ぎ、午後の検温のため看護婦がはじめて私の前に現れた。「佐々木さんの手術日は未だ決まっておりませんが、ここ二・三日中には決まると思います」と教えてくれた。私は入隊後、一度も軍医の診察を受けていないにも拘らず、原隊からどの様な内容の添書があったのか知らないが、もう既に看護婦の口から手術の連絡を受けるとは、余りにも事務的に取り扱われていることを不安を感じた。やはり軍隊というところは、病院においても我々の身柄を員数扱いをするのかと愕然とした。癒着の剥離手術とは云っても、私の体は術後化膿する心配があり、角を矯めて牛を殺すようなことにならない様、慎重に処置して欲しいと思った。

 やはり手術予定が組まれていたのか、入院三日目の六月一八日午前一〇時、担当軍医筒井大尉の診察を受けた。そうして二日後の二〇日午前十一時から手術をするから、体調を崩さないようにと注意を受けて病室に戻った。診察に当たった筒井大尉は、かなり年配の様に見受けられ、診察中も終始慎重な態度で細かく診察してくれていたので、多分医師経験も豊富で信頼のおける軍医だと思い安堵した。

 一九日の午後、私のところへ一七歳位の可愛い見習い看護婦さんが現れた。手に剃刀を持っていたので、私も即座に術前の準備に来たと思った。看護婦さんは持っていた剃刀などを、私のベットの端に置いて、布製の衝立を運んできて、手際はよくベットの周りを囲んだ。笑みをたたえながら、「明日の手術の準備をさせていただきます」と云いながら、すかさず横になっている私の白帯を解いて下腹部に石鹸水をつけた。この可愛い看護婦さんは、何も臆することなく、その手際のよさには吃驚した。患者に羞恥心すら与えない早業であった。剃り終わり後片付けをしながら「明日は多分午前中だと思いますので、どうか頑張って下さいね」と温かい励ましの言葉を残して病室を出て行った。あの様なまだ幼い看護婦が、何時戦火に見舞われるとも知れないこの陸軍病院で凛々しく働いている姿には、私自身大きな感動と励ましを受けた。彼女は在満の家族のひとなのか、それとも遠く内地から派遣されてきているのだろうか、何れにしても、今の日本は挙国の総力戦の体制にあるのだから、行きつくところがどうなろうとも、いまは与えられている夫々の任務に邁進するしかないのだ。私もいっ時も早く回復して原隊復帰すべきであると心した。

 六月下旬ともなれば、窓越しに見える光景も初夏の風情がいっそう深まり長閑さを感じる。廊下づたえに入ってくる風も生暖かく心地好い日々であった。この気候は手術後の静養には最も快適であり、このような時季に手術に巡り合ったのも、何かの因縁と感謝しなければと思った。六月二〇日午前一〇時過ぎ、婦長に連れられて病室を出て治療室に入った。未だ朝の病室回診時間のせいか、大勢の看護婦が凛々しい姿で、忙しく治療室を出入りしていた。私も間もなく手術室に連れられて行かれることすら忘れて、看護婦達が甲斐甲斐しく働く姿を見続けていた。

 そうしているところえ二人の看護婦が来て、手術衣に着替えさせられ直ぐ手術室へ連れて行かれた。手術台に上がり横になると、先程まで暖かった筈の体に悪寒が走った。手術台の上に吊り下げられている照明器具をじっと見つめているとかえって動揺するので、目を閉じ耳をすまして医師の入室を待っていた。一〇分程すると、筒井大尉が看護婦を従い何か打合せをしながら手術室に入って来た。私は二度目の腹部手術であったから、腹を切られる過去の経験が、かえって恐怖心を募らせていた。何とか気を落ち着かせようと、足の親指に力を入れたり、両親指を擦り合わせ気を揉みながら待つていた。早く麻酔をかけてくれると、気も落ち着くと思った矢先、医師が近づき麻酔に入ったのである。一瞬手術の成功を神に祈りつっ身を固くしていたが、気は静かに遠のいていった。

 手術が終わって病室に戻ったのは、午後三時頃だと思う。麻酔のせいか重苦しい頭痛がしてならない。開腹痕が鈍い痛みが脈を打つ様につたわってくる。でもどうやら無事に施術が終わったとホッとした。でもこの容態では、今夜一晩は相当痛むだろうが、歯を食いしばってもここは耐えなければならないと思った。一時間程たってから看護婦が術後の私の容態を見に来た。静かに、「痛みますか」と問いかけてくれた。私は、「今のところ我慢が出来ない痛みではない」と答えた。看護婦は血圧と脈拍を計ってから、耳元で、「今夜一晩ぐらいは痛むだろうが我慢してね」と云って出て行った。その後、まだ麻酔がきいていたせいか四時間程眠った。目覚めると室内は点灯され夜になっていた。

 やはり手術痕が、脈拍に連動するかのように疼くのである。頭の芯も重くこめかみのあたりがずきずきと痛む。出来得れば痛み止めの注射を打ってくれれば、今夜は楽に眠れると思ったが、兵士の名においても甘えなどは許されないと思い、顔をしかめてじいっと我慢をしていた。消灯後、看護婦が病室内の見回りに来た。私のベットの前で足を止めたが、目を閉じて耐えている私を眠っていると見とってか、声もかけずに立ち去った。手術後三日目には、痛みも大分和らぎ、周辺の患者の動きも目に入るまでになった。悪夢から醒めた気分であったが、微熱が依然として続いていた。今朝一〇時過ぎに回診があり、筒井大尉から順調に治癒していると云ってくれたので、傷の痛みも遠のく感じがした。

 八日目の午前、回診に来た若い軍医は、私にとっては初対面の医師であった。婦長は恰かも指図でもするかの様に、「この患者は今日が抜糸です」と云った。看護婦が腹帯を解くのももどかしそうに、この若い軍医は看護婦が手渡した鋏とピンセットで、アッという間に抜糸して無言で立ち去った。私も何と傲慢なと内心思いながらも、婦長先導で立ち去る姿に会釈をした。ひとり残った看護婦が、抜糸の痛みを耐えていた私の顔色を見取ってか、腹帯を結び直しながら、「痛かったでしょう」といたわる様に云ってくれたのが、せめてもの慰めであった。

 抜糸後も、どうしたことか微熱が続いていた。抜糸後八日目からは、三七度以上の熱が昼夜を通して続いた。抜糸後の回診では何等の処置もされず、ただ傷の表面だけを診る始末で、私も内心心配になってきた。私の自己診断では、患部に異常が感じられるから、術前に心配していた傷の化膿が現実となったと思えてならなかった。でも、あの鬼婆の様な婦長は、今朝の回診の際にも、「気をつけていないから風邪を引いた」と繰り返し若い軍医に告げるのである。こうして、引いてもいない風邪のせいにして、一方的に私を責め立てるのである。私も陸軍病院でなければ、これを真っ向から否定し症状を訴えたいところだが、今の私にはそれが出来る立場にはなかった。

 それにしても、頼りにしていた執刀医の筒井軍医はいったいどうしたのだろう。手術後四日目あたりから、一度も回診に顔を見せない。転属でもしたのだろうか、私は心配になってきた。その日午後の検温に回って来た看護婦が、手術前に陰毛を剃ったあの可愛い見習看護婦だった。私に体温計を渡しながら、「お熱がある様ですがどうですか」と問いかけてくれた。私もこの一言で救われた様な気がして、咄嗟に、この若い看護婦なら聞いても悪意には取られまいと、思い切って筒井軍医が見えない訳を尋ねた。すると何の拘りもなく、「筒井軍医は出張中ですが、後三日程で帰ってまいります」と教えてくれた。そうして、この可愛い看護婦自身も研修の為、ここ二週間程病院を留守にしていたと言葉を足した。

 それからは助けの神、筒井大尉が現れるまでじっと待つていた。今の若い軍医では、余程症状が悪化しない限り何も訴えられない。どうせ婦長の言いなりで、何も診てくれないのだからと思った。その後も熱のみが症状を訴えるかのように、三八度を前後しながら下がらなかった。それから四日後、待ちに待った筒井軍医が回診してきた。助けの神筒井軍医の顔を見ると、親の顔でも見たような安堵感が胸を締めつける。看護婦が腹帯を解くと同時に、看護婦にメスを求め、縫合せてあった傷をアッという間に再切開した。看護婦がすかさず当てた膿盆に噴き出るように膿が流れ出たのである。矢張り心配していたとおり化膿していた。再切開した傷は、当面その儘縫い合せをしないだろうから、全く四年前の手術後と同様の状態を繰り返す結果となってしまったのである。この症状では暫く退院は難しく、原隊復帰は当分望めないので一層原隊の同僚達に後れを取るが、この際は成り行きにまかせ原隊復帰は暫く考えまいと目を閉じた。

 七月中旬ともなれば、窓越しから涼風がカーテンを泳がせながら、ベットのうえを撫でて抜けて行く。再切開後は熱も取れ苦痛も遠のいてきた。そのうえ独歩患者として、周囲の患者と療養生活が伴に出来るまでになった。風邪の熱だと言い張っていた婦長も、自分が誤診していたことを認めてか、再切開の一件以来は親切心を見せ始め、又私自身も婦長に対し気分的に楽になり、回診どきにも多少のことは我儘が言えるまでになった。再切開した傷口も二週間程たつと、少しは小さくなり回診時のガーゼ交換が待ち遠しいほどであった。傷口から取り出されたガーゼには膿らしいものは殆どついていない様だから、今後更に化膿をしなければ順調に回復し、あと一ヵ月もすれば傷口の大部分が塞がるのではないかと思った。

 食事時に患者食堂で知り合った別病室の佐藤上等兵に目をかけられ、毎日午後の安静時間が過ぎると、退屈凌ぎに私を娯楽室に呼び出し五目並べの相手をさせる仲になった。彼は飽きもせず毎日の様に呼び出すので、私も同室の患者兵士から変な目で見られはしないかと心配になり始めた。二等兵の分際で、その上療養中の身でありながら、こうも毎日五目並べをして遊んではいけないと自戒をしていたが、佐藤上等兵は半ば上官の命と云わんばかりに私を連れ出すのであった。

 八月に入ってから傷口は順調に治癒しつつあった。傷口の大きさも今では、切開当時の半分くらいまでにせばまってきた様に見える。私も傷口が小さくなるにつれ、原隊復帰が気になり始めた。部隊の編成がどの様になっただろうか。それよりも部隊は、私を残して何処かへ移駐してはいないか。又太平洋戦争の戦況はどうなっているのだろうかと気になった。病室前の廊下に設置してある院内連絡用スピーカから、折にふれラジオ放送を流してはいるが、肝心な戦況については一切放送されないのである。満洲が直接戦場とならない限りは、入院中の我々の生命に危険は及ぶまいが、万が一にもソ連が参戦でもしたら、ソ連国境に近い東満洲の間島市は、即座に戦場化するであろう。入院してから既に五〇日が過ぎた。入院当初に想像していた締めつけもなかったので、病院生活の慣れと術後の苦痛もなく平穏に過ごせるようになった。