八 電信第五五連隊、「通称岩第二六七二一部隊」に配属

 

 翌六月六日、朝から内務班で環境整理に取りかかる。昨夜遅く着いたので、中隊兵舎の様子すら分からないまま就寝したので、いっ時も早く兵舎の内部を知っておかなければ、先々の行動に差し支えがあるので、素早く見て回った。部隊内の兵舎には空舎が多いことに気づき、若しかすると安保中隊が先遣隊として入って来たのであろうかと思った。あれ程急がして兵士の尻を叩き、日々欠かさず訓練を続けていた通信教育も、間島到着後、既に三日も過ぎているにもかかわらず、一向に開始する気配すら見せない。私なりに何か変化が起きていると思えた。中隊幹部の動きにも、何か待機姿勢が見受けられるのである。後で分かったことだが、この時期に電信第五五連隊、「通称岩第二六七二一部隊」の編成が進められていたのである。

 六月一〇日、中隊内部に初めて動きを見せたのである。我々同僚のみで編成されていた安保中隊内に、四〇歳を超える年配の二等兵が入ってきたのである。ぎこちない態度や動作からして、他の部隊で訓練を受け移駐して来た兵士とは思われなかった。多分在満邦人が招集されて来たのだと直感した。若しそうであれば、我々初年兵にも後輩ができたことになるので、少しばかり心にゆとりが持てるようになる。しかし、他方考えてみると、この様な年配者までを招集しているとすれば、戦局はかなり緊迫して来ているのでないかと不安がよぎった。確かドイツが降伏して、既に一ヵ月以上も経過しており、また日本軍の戦局も大きく変化しているに違いない。

 私が日本を出発した時点の戦況から推しても、欧州戦線におけるドイツ軍の抗戦で連合軍の戦力が二分され、そのことによってどうやら持ち堪えていた戦況にあったから、そのドイツ軍が降伏したとすれば、米英主軸の連合軍の主戦力が、当然日本軍との交戦に向けられただろうから、この先そう長くは持ち堪えられないと思う。それにしても、間島に駐留することになった我々には、どんな任務が課せられているのだろうか。地理的にはソ連軍の侵攻しか考えられないが、ソ連とは確か不可侵条約を結んでいた筈だから、まずソ連軍の侵攻は当面あるまい。兵舎が空いているのも、多分そのせいかも知れないと、勝手に想像を逞しくしてみた。間島に移駐してから既に一週間経っているが、安保中尉殿の姿は一度も見かけない。それもその筈、安保中隊長は部隊本部で、矢木部隊長の下で部隊編成に携わっていたのである。内務班生活も、林口在営中のような張り切りが見られず、ただ部隊体制の出来上がりを待つ日々のように思えた。肝心な通信教育も未だに始まらず、日々使役要員として駆り出されていた。

 六月一三日、朝の点呼後、私は松尾班長から下士官室に呼び込まれ、体調はどうかと聞かれた。私も格別体調を崩していなかったので、「お陰で現在のところ痛みはありません」と答えると、松尾班長はすかさず、「そうか」と云って、「実は中隊長はお前の体のことを随分心配をしているのだ、既習兵は今の中隊にとっては宝だから一日も早く治すことを考えれ」と云われた。殊に現下の戦局では、何時動員がかかるかも知れない状況下にあるので、「手術をして早く治してはどうか」と云うのである。中隊長までが、私の体のことをそれ程まで心配してくれていたとは、今日まで思っても居なかった。やはりこの際、云われるとおり手術をして治すべきだと、私も即座に判断して、「そうさせて頂きます」と答えた。入院の日時については追って連絡するから、その心づもりで待機するように云われて下士官室を出た。私には全く予想外のことであったから、今手術することの善し悪しを判断するいとまもなかったが、折角の配慮でもあり、今後何時状況が変化して、今までのように上官からかばって貰えなくなる。たとえ手術の結果がどうであれ、この際上司命令に従うことが無難であると考えながら内務班に戻った。同僚兵士達は今日も使役に出て班内には居なかった。私の内務班生活もこれで暫く途切れることになり、同僚からは立ち遅れ、第一期の検閲で昇進が見送られることになっても仕方がないと思った。先のことはこの際あまり考えずに、すべてを流れに任せることにした。