七 安保中隊間島に移駐する

 

 四月に入り、北満林口の空は青く澄み、陽光の輝きも強まって、営庭の雑草も日増しに青さが増してきた。木立ちも何もない荒野だが、季節の変わり目だけは実感できた。中隊内では、相変わらず未習兵の通信講堂通いと、既習兵の我々に厳しい訓練が続けられていた。その合間を縫って、完全装備で二〇キロ行軍や、夜間戦闘訓練などが矢継ぎ早に行われた。また、手旗信号、投光通信も取り上げられ、次第に通信隊の機能が整えられつつあった。

 五月に入って間もなくのこと、突然部隊内に日本脳炎の疑似患者が出たということで、全隊員に髄液検査を受けさせるため、部隊から四キロ程離れた林口病院に出かけた。入隊以来、営外に出たのは演習で二回、行軍で一回だけであったので、初年兵にとっては、営外には興味もあり、ある意味では気晴らしにもなる分けである。

 殊に今回の様な演習でもない病院行きは、春めいた丘陵へ遠足にでも出かけるように、かってない気楽さがあった。初めて向かう方向であったので、ウロウロと四囲を眺め雑談をしながら歩く。四囲どちらを眺めても、なだらかで果てなく続く丘陵と陵線に沿って拡がる青い空、これが北満の広野かと確りと目に焼きつけた。天と地があるのみで、他に何ものも存在を許さない空間、自然の神秘が感じられる。果てしない丘陵を二分する一筋の道路を三十分程歩いただろうか、ふと隊列の先に一筋の砂塵を巻きあげ、こちらに向かって来る馬車が目に入った。どこからどんな人が来るのかと、行き違いを期待していた。駄馬が小刻みに首を振りながら近づいて来た。私の目にも満人であることが確かめられた。父と娘と思われる二人連れで、初めてお目にかかる支那服の娘に、初年兵の目が一斉に注がれた。林口街へでも行くのだろうか、全く我々にかかわりない顔をして通り過ぎて行った。

 林口陸軍病院は、丘陵の中腹にあった。かなり大きい施設の廊下に順次入り、検査の順番を待つた。廊下を忙しそうに行き来する看護婦の姿に我々の目が奪われ、一瞬一般社会に戻ったような気がした。五人づつ呼び込まれ、白布の掛かったベットに上半身裸になって横になると、待ち構えていた衛生兵が馬乗りになって、私にはかって見たこともない太い注射針を看護婦から受取り、いきなり胸骨に垂直に刺した。それは息が止まるほどの痛さであった。髄液を抜き取った針痕に看護婦が無言で申し訳け程度のガーゼを当ててくれたが、痛みは暫く続いた。なかには、その後発熱した者も居た。

 この日本脳炎の発生騒ぎがあってから間もなく、第七二五〇部隊に異様な動きが感じられはじめた。何となく耳にした噂では、部隊が何処かへ移駐するというのである。それにしては安保中隊には何らの動きも見せない。噂を耳にした七日後、他の中隊の動きが顕在化し、その動きは我々初年兵の目にも明らかになった。しかし、わが中隊では依然何らの動きも見せない、しかも、部隊内がこれ程大きな動きを見せているにも拘らず、我々初年兵には何らの示達もないのである。

 安保中隊の残留が決定的と見られたのは、五月二〇日、朝の点呼時の様子で分かった。この広い営庭がひっそりと静まり返り、人影すら見えないのである。昨夜密かに出動したものとみられる。我々が残留となった事情は未だに知らされず、ただ取り残された不安が残った。内務班では、日本脳炎の疑似患者は、安保中隊から出たために残留となつたとの噂が広まったが、松尾班長はこれを肯定も否定もせず、ただ口を閉ざし、まして七二五〇部隊の移駐先等は一切語ろうとしなかった。

 残留となった安保中隊内部では、今までと何ら変わる事なく通信教育が続けられていたが、なんとなく残留組の気楽さが感じられた。五月下旬にもなると、空き兵舎の広い営庭には、雑草が我がもの顔で伸び放題となった。私はふと思い出した。それは今月初旬、昼食後の休憩時に、松尾班長がふらっと現れ、私の近くに居合わせた菅原一等兵に、「ドイツが降伏したょ」と肩を落として耳打ちしたことである。決して耳立てしていたわけではないが、私の耳には判きりと聞き取れた。私もこれで、この戦争の先が見えたと咄嗟に思えた。そのときの松尾班長の顔に憂慮が隠し切れなかった。私は決して他言するまいと胸に秘めた。

 この話は林口在営中、初年兵の口に上ることがなかつた。又軍当局は兵士の士気に関わるため、このドイツ降伏は勿論、日本を出る時点あれ程まで切迫していた筈の戦況も一切伏せられていた。この度の七二五〇部隊の移駐も、当然作戦上のこととは思うが、何処へ向かったのか、又入隊して間もないので、果たして即戦力となるのか気にかかるところであった。

 安保中隊の残留が、日本脳炎の発生に起因しているとは、初年兵の勝手な思い込みであって、安保中隊は既に第三軍臨時通信隊として、満洲第三六八〇部隊の隷下に編成替えとなっていたのであった。五月下旬ともなれば、酷寒の北満でも気温が上がり、厳しい内務班生活から、寒さだけは開放された。不安のみを抱いて入隊した二月下旬を思い出すと、そこには、もう時の流れを感じさせる。通信教育の合間の休憩時に、燻らす煙草も味わえる余裕がもてはじめた。

 五月三〇日朝の点呼時、週番士官から、近く当中隊は移動する旨の示達を受けた。愈々出動かと体がこわばる緊張を覚えた。その日の午前の日課から通信教育が中止となり、班内の初年兵は五名乃至一〇名が組になって、移動準備の作業使役に出て行った。この時も私には使役命令が無く内務班に残されていた。強い陽ざしを受け明るい筈の内務班が、残されるととても寂しく感じられた。

 中隊の移駐の準備には、そう日時を要しなかった。事前に準備が整っていたのか、それとも、取り立てて準備するものが既に無かったのか、その何れかは知る由もないが、六月四日林口を離れることになった。七二五〇部隊の本隊が移駐して行った跡は、ただ広い営庭の片隅に取り残されていた我々初年兵にとっては、移駐先が何処であろうと、又いかなる任務であろうと、多少脱力感が出ていた現状から逃れることができると思った。出発前夜、兵士は身の回りを整理して軍装を整えた。いざこの地を離れると思えば、兵舎や営庭が無性に懐しく思えた。殊に今夜限りのこの内務班では、入隊以来数々の出来事が次々と繰り広げられた。僅か三ヵ月余りの期間ではあったが、精神的に色々と苦痛を味わった内務班の起居、苛めとしか受け取れない制裁行為の数々、これらは単なる思い出を超えるものばかりであった。

 五月四日の朝、恰かも行軍に出る雰囲気で営庭に整列してから出発した。既に空き兵舎となっていた旧部隊兵舎を横目に見ながら、もう二度と帰営することがない営門を出て林口駅に向かった。二月下旬、凍てついたこの道路を、さきざきの軍隊生活への不安を抱き、地下足袋での冷たさに震えながら歩いたことが、昨日のことのように思われる。それに引き換え、今頬を撫でる暖かい心地よい風、新たな門出にふさわしい日和といえよう。丘陵の尾根にさしかかると、眼下に林口街が目に入った。先に行われた演習の際に眺めた早春の光景とはうって変わり、街の周辺はすっかり緑一色となっていた。次第に林口街に近づき土塀で囲まれた街並みに入った。此処へは遂に一度も訪ねることが出来ずに、又何らの想い出も拾うことなく離れる寂しさが感じられた。街路の土塀越しに見え隠れする満人の動きが気になるが、隊列は無表情に先を急いで駅前に出た。

 直ちに、あらかじめ配車手配していた列車に乗り込み、無表情に林口駅を発った。完全軍装の重い背のうを網棚に置き腰を掛けると、同僚兵士達の顔が意外にも明るかった。このたびの輸送では車窓遮蔽の鎧戸も下ろさずに、どうやら車窓の光景が楽しめそうで、気分的にもホッとしているのであろう。牡丹江駅に近づくと、列車で一度通り抜けただけの牡丹江の街並みが、私にはなぜか懐かしく感じられた。それは七年前、次兄の鷲一兄が牡丹江から差し出した軍事郵便を記憶していたからである。街の規模から見ても、東北満州の基幹都市と見受けられ、関東軍はこの街にどのような防衛体制をしいているのであろうかとふと思った。車窓から見た私の目には、何かひっそりと静まりかえって、高台に見える一基の高射砲が寒々とさえ感じられた。牡丹江駅を発ってから、列車が南下していることは、太陽の位置から見ても明らかで、今回の移駐で南東満州に行けることで、なんとなく心強く感じられたのは、私一人ではあるまい。

 移駐先が、東満州の間島市であることを知ったのは、到着二時間ほど前だった。間島市は、別名延吉市とも呼ばれていた。私の記憶では、次兄の鷲一兄が在満中、延吉陸軍下士官教導学校から寄せた軍事郵便を見た記憶があったので、かって次兄が居たことのある延吉街がどんなところだったのか、内心興味深く思った。列車が延吉駅に着いたのは午後八時過ぎであった。列車で十数時間も南下したので、気のせいか林口の気候に比べやや暖かく、初夏のきざしすら感じられた。

 下車後、直ちに徒歩で部隊兵舎に向った。途中薄暗くて間島市街の様子は見ることができなかったが、林口市街とは比較にならない整った街の様に感じられた。我々は未だ教育訓練中の身柄であるから、戦況が余程変化しない限り、暫くは此処に駐屯することになるであろうから、そのうち外出の機会も期待出来るから、その折りには、街中の様子をじっくり見て回ろうと期待しながら歩いた。二階建の部隊兵舎に着き、二階中央階段横の内務班で軍装を解いた。林口の兵舎とは変わった雰囲気ではあったが、同僚兵士達には入隊当時の様な不安と緊張は見られなかった。