五 軍通信教育

 

 入隊して三日目の午後から通信講堂で、モールス符号の習得に入った。講堂内に集合した初年兵の数は、八〇名余りであるとこから、中隊内の初年兵全員を通信技術者として養成するわけでないことを初めて知った。随伴している教官が、松尾伍長と第一班の槌本軍曹しかいないところを見ると、通信兵は、この二班だけかも知れないと思った。川井見習士官が教壇に立ち、「今日からモールス符号の勉強をする」と言い渡し、一日も早く覚えて戦力となるようにと、叱咤激励の訓辞を受けた。どのように決められた席順なのか、私は八列のうち四列目の一番前に着席させられた。目の前にすぐ川井見習士官の顔があったので、一層緊張し一言一句を逃すまいと聞いていた。どうせへまをやると、ビンタが飛んで来るのだろうと覚悟していた。モールス符号は、いろは順に、川井見習士官の発声に併せて、「トツ、トツトツ、ツトトト」と発声する記憶方法がとられた。、既習者の私にとっては、この段階の勉強だけは遠慮したいものだと思った。でも目の前の教官の目を見詰めながら、皆に合わせて発声していた。

 通信講堂通い三日目の午後三時頃、四〇分程勉強して休憩に入る寸前、川井見習士官がいきなり、「コラお前ッ、お前は何時もニコニコしている」と私を指ざしした。私は直感的に、緊張を欠いている意味の指摘だと思った。ところが、そう云った教官の顔もにこやかな笑顔であったのでホツとした。私は、今まで常に対人関係で悪い印象を与えまいと、人様にはにこやかに対応して来た。それが軍隊では通用しないという訳けではあるまいが、真剣にモールスを記憶しようと緊張努力している初年兵の顔つきに較べ、教官の目には真剣味を欠いていると見えたのであろう。私にとっては、この事がきっかけで教官に親しみを覚えることになった。

 私のこうした通信講堂通いは、五日目で打ち切られた。やはり既習者は切り離され、別個に教育されることになったのである。

 六日目の朝も班内には何ら変わった様子もなく、班長の指揮のもとに同僚達は雑納を肩にかけ、いそいそと通信講堂に出かけて行った。内務班に取り残されたのは、私のほかに同僚の大滝二等兵と菅原一等兵の二名であった。さてこれから、僅か二名の初年兵をどう教育する積もりだろうかと、菅原一等兵の様子を見詰めていた。間もなく隣の第一班から、二名の初年兵と降旗一等兵が現れた。当中隊の初年兵の中には、既習者が四名しかいないことが分かった。菅原一等兵がおもむろに、「今日から既習者のお前たちを別教育することになった」と云い、直ちに通信機材室に連れてゆかれ、機名もわからない小型な通信機を指さし、これを第二班の内務班に運び入れるよう命じられた。小型な機材ではあったがかなり重いしろもので、二人で一台づつ、二台を内務班に搬入した。

 菅原一等兵が、手早く電源を取りつけてテストに入る。私にとっては、初めて耳にしたブザー通信の信号音であった。今まで音間通信で耳慣れしている私の耳には、なんとなく聞き分け難い音の長短であった。通信講堂に通った五日間のモールス符号の勉強とは打って変わり、いきなりブザー通信の受信に入ったのである。教官である菅原一等兵は、かなりの腕前の様で、電鍵を打つ手さばきが見事に滑らかであった。ついこの間までいた郵便局でも電報の受信には拒否反応を示していた私が、何故また此処で、しかも鉄拳のもとで勉強しなければならないのかと思うと、かって自から選んだこの道が誤りであったことを悔いた。受信の練習は、毎日の様に続けられた。その割には、私の受信スピードが上がらない。どんなに真剣に取り組んでも受信速度が上がらず、「一分間六〇字」程度しか受信出来なかつたのである。かって札幌逓信講習所の学期末試験のモールス送受信でも、受信の成績は良くなかった。やはり耳が悪いのだろうかと思った。

 中隊の機動力を、一刻も早く即戦力として備えておきたい中隊幹部の意気込みは、初年兵の通信未習者にも注がれ、日課の他に毎夕食後、二時間程度の特訓が続けられていた。そのお陰で、その間内務班に居残った私達二人は、監視の目の届かない自由時間が与えられ、軍律厳しい軍隊生活にも、こんな隙間があるのかと不思議にさえ思えた。居残った大滝二等兵から、旭川で母と二人きりの生活をしていたことと、今まで旭川駅に勤務していたことを聞き互いに親交を深め合い、この先も二人は助け合って行こうと誓い合った。

 一ヵ月程経って、第六中隊の有線小隊のみで、野外での実地演習を行うことになった。いわゆる日頃の成果に機動性を持たせて実技を試すのであろう。勿論、我々通信技能兵ばかりではなく、入隊以来、架線など他の分野で懸命に技能取得で頑張ってきた建柱班、架線班、補修班の総合演習となったわけである。入隊以来、一度も営外に出る事のなかった初年兵にとっては、営外がどんなところか興味をもつていた。三個有線小隊に臨時編成され、夫々の小隊別に実地演習をすることになった。私は、第一小隊の第二通信分隊に所属し、第一通信分隊との送受信訓練を想定して実施された。小隊長には川井見習士官が当たり、入隊以来初めて出る衛兵所を軍靴の音も高く歩調をとって待望の営外に出た。しかし、営外は期待した光景ではなく、ただ荒寥と拡がる丘陵地で、そこには春浅く風に靡く草木もなく、往来の人影すら見当たらなかった。暫くは入隊時夜通った道を戻るように進行し、林口神社の手前当たりを、左折して道なき丘陵の尾根づたいを進む。四月始めとはいえ、興安嶺降ろしの風は冷たく、昨秋の枯れ草を撫でて吹き去って行った。

 川井小隊長の命令で、演習開始となった。第一通信分隊が通信機材の設営を開始した。続いて建柱分隊が、次々と架線用の電柱を建てて行く。その後を追う様に、架線分隊が架線して続く。我々第二通信分隊は、前線を想定した通信基地を求め、丘陵の尾根を先行した。約一キロメートル程前進した処で窪地を発見し、分隊長の命令により、その場を第二分隊の通信基地として通信機材を設営した。後方から建柱分隊と架線分隊が夫々に任務を果たしながら、第二通信分隊の通信基地に接近して来た。架線分隊の到着で、第一通信分隊の通信基地と接続した。ここからが通信分隊の出番で、直ちに菅原一等兵がテスト交信に入り、架線の接続状況を確かめ、その後既習者の佐々木二等兵が指名され、指示に従い交信に入つた。交信相手が誰なのかは分からないが、自分に比べ相当手慣れたモールス信号が流れて来た。佐々木二等兵の交信後は、次々と初習兵に交信させ、最後に川井小隊長から、「演習終了、撤収せよ」の命令を受信し、直ちに撤収に取りかかった。演習終了で初めて経験した緊張の糸が断ち切れた感じがした。しかし、架線分隊と建柱分隊には、撤収作業の実地演習があることに気づく。撤収は、架線分隊が先行し、建柱分隊がその後を追って次々と撤収作業が進められて行った。一〇名編成の第二通信分隊は、建柱分隊に付かず離れずの距離を保ちながらついて行く、丘陵の裾野に林口街が見えた。その街を隔てた向こうはなだらかな丘陵が果てしなく続いていた。一ヵ月前の入隊時に林口駅から通り抜けた小さな林口街は、米西部映画で見たセピヤ色の荒野の光景に似ていた。私は若し機会が得られるならば、この広大な天地の空間に住む人々を、是非訪ねて見たいものと思った。

 三〇分足らずで、川井小隊長が待ち構えていた第一通信分隊と合流して隊列を整えて成果公表を受けた。建柱、架線分隊の機動性はともかく、初習者の通信技倆には不安が残ったと見え、事後の通信講堂通いが一層激しくなった。勿論既習兵の我々にも、軍通信の在り方などを次々と叩き込まれた。

 四月末、安保中隊の全組織機能をあげて、実戦を想定した機動演習が展開された。私はこの頃から、自分の通信伎倆に不安を抱き始めた。若し実戦で暗号数字に受信誤りがあれば大変なことになると思い心の重荷となっていた。