三 一路満洲へ

 

 翌朝六時過ぎ、浅い眠りから目覚めた。爆風による窓ガラスの破砕を避けるため貼りつけられた紙テープで、薄暗い部屋の窓を開けると、空は晴れ和らいだ春の陽射しが、椿の葉のうえで躍るようにきらきらと光っていた。古い板塀を巡らした民家とも思われる小さな宿で、昨夜同宿した二〇名足らずの同僚達が、夫々に狭い部屋で膝寄せ合って忙しく朝食を済ませ、身仕度をして待機していた。老いた女将が、兵隊の扱い馴れした顔つきで、障子の蔭から、「ご苦労さんですな」と一言添えて番茶を押しやる様に置き去った。私はそれを膝元に引き寄せ同僚達に回すと、注いでくれたお茶を口にするのは、この先暫くは望めないと口々にしながら飲んだ。

 午前八時過ぎに迎いの係官が見え、徒歩で天王寺の境内に入った。私の目を真っ先に捉えたのは、この時季に初めて見る梅の花であった。それは三分咲きで可憐に見えた。自然だけは戦争を外目に、こんなにも美しく季節の営みを繰り返していると心打たれた。係官の先導で境内中央にある本堂前にある広いお堂に入いった。

 そこには、既に三〇〇名を超えると思われる同僚たちが、整然と隊列を組んで待機していた。同行した二〇名足らずの同僚も指示通りに、その後部に続いた。膝を立てて前方を見ると、厳めしい顔をした将校等数人が動き回っている。堂内は粛然として声えなく、暫くしてひとりの将校が我々に向かって、「これより身体検査を行う。氏名を呼ばれたものは、裸になって検査官の前に進み出ること」と命じた。もうそこには、厳しい軍律の指揮下にあることを意識させられた。次々と呼び出されて行き、身体検査を終了した同僚の姿が検査会場から消えて行く、最後部に居た筈の私達がいつとはなしに前に出て、後部には又長い隊列が出来ていた。

 私が検査官の前に呼び出されたのは、午後三時過ぎで、立ち上がると、西日の陽射しを頬に受けた。軍医と立会将校の前に立ち氏名を名乗ると、軍医は私の体を上から下へと視線を流してから、型通りに聴診器を当てた後、腹部にある傷に目をやり、「これは何だ」と聞かれたので、すかさず、「盲腸炎術後の傷です」と答えた。すると軍医は、「よぉしー」と念を押すように言い放って、前を立ち去るよう促した。その間誠に短く、ァッという間の結末であった。私も部屋の片隅で見繕いしながら、これで大阪からの引き返しは完全に断ち切られ、仕切り線を越え兵士の一員に加わったことを自覚し検査室を出て、別室で待機中の隊列の後に続いた。

 夕刻、軍服などの支給があり、軍服に身を纏い、母から預かった風呂敷包から千人針と寄せ書きを、支給された雑納袋に移し替え、脱いだ私服を無造作に風呂敷に包み込む。私物は一切送り返せとの命令に従い、私も母宛に郵便小包を作って預託した。せめて紙片に入営した旨を書き添えて送りたいと思ったが、もうその予猶すら与えられなかった。賢明な母のことだから、この小包の到着が意味するところを、すべて読み取ることだろう。でも、あの子は何処へ行ったのだろうかと、暫くは思いあぐねることであろう。

 初めて袖をとおした軍服、戦闘帽をかぶり、帯剣のついた帯革を締めると、私も凛々しい兵士に早変わりした。でもゲートルを巻いた足もとが地下足袋とは驚いた。別途支給された外套もそう厚地でないところから判断すると、我々の行き先は暖かい所かも知れないと、勝手な想像をしながら待機していた。そのとき既に、我々を引率するため来阪していた将校と下士官の指揮下にあったのである。軍部の情報管理下にあるため入隊先は未だ知らされず、引率の都合上二〇〇名単位に隊を臨時編成し、引率下士官の指揮下に掌握された。私の所属隊の引率下士官は松尾伍長と名乗り、小柄で物静かな男であった。軍隊の飯ならぬ炊き出しの夕飯を食べ、暫くは、天王寺境内で待機が続く。緊張のせいか、余りあれこれと考えることもなく、目ばかりが忙しく四囲を追うっていた。

 午後十一時半を過ぎ、境内広場に集合命令が出た。愈々出発と直感した。背伸びして隊列の前後を見ると、総員は千名を軽く超えている隊列であった。やがて隊列が波を打つように動き出す、地下足袋のせいか、あの勇ましい軍靴の音は無かった。燈火管制下で薄暗い夜半の大阪市内街を、隊列は静かに梅田駅に向かった。駅に到着後も隊列を崩すことなく、そのまま駅舎を通り抜けてホームに出た。ホームには、兵員輸送用に仕立てられ、鎧戸をおろした長い列車が待受けていた。あくまでも四囲の人目をさけて直ちに乗車を終えた。外套を脱いで座席に腰を下ろして間もなく、引率の松尾伍長が現われ、「乗車中は窓の鎧戸を絶対に上げてはならぬ」と厳命し、睡眠不足になるから直ぐに寝ろと云い残して、他の車両に移って行った。私も目を閉じ、暫くは今日一日時をなぞる様に思い巡らしていたが、疲れが眠気を誘い何時とはなし眠った。

 鎧戸から洩れる明かりで夜明けを知り、時計を見ると午前六時を過ぎていた。車内には次第に私語が広がる。鎧戸の隙間からそっと覗くと、列車は山陽本線を西に向かって走っていた。昨夜は、自己紹介も交わさず直ぐ眠りについていたので、頻りと互いの出身地を前置きした自己紹介が交わされていた。そのうえ、同年兵のみの輸送中という気楽さから、従前の職業や出身地の概況などを気軽に話し合っている。聞こえてくる会話からして我々仲間は、かなり広範な地域から寄せ集められており、職業も多岐に亘っていることが伺われた。そして若さが成せるのか、悪化の一途にある戦況などは一向に臆する向きもなく、言わば意気軒昂であった。それはかつて軍人を志望していた、私の少年の頃の心意気に近いものが感じられた。腹に傷を持ち、体調が思わしくない今の私には、この様に元気な同僚たちと、果たして行動を共にすることが出来るだろうかと、先行きに不安がよぎった。

 大阪を発ってから車窓の景色すら見る事もなく、列車は夕刻下関駅に到着した。ホームに降り立って、隊列が又波を打つように動き出した。随伴している松尾伍長の軍刀姿が、一層凛々しく映る。気象情況が悪化してきたのか、かなり強い浜風がホームを吹き抜けていく。隊列の先頭が関釜連絡船の桟橋に向かっていたので、このときはじめて満洲に向かうことを直感した。桟橋待合室での待機時間はかなり長かった。見渡したところ待合室には我々兵員のみで、一般乗船客の姿は全く見当たらない。時折、待合室のガラス窓を揺するように雨まじりの強い浜風が吹きつける。待合い時間が長時間に亘るので、きっと天候の回復待ちと勝手に勘ぐる。そうしているうちに夕食が搬入され、飯にありつく。大日本婦人会のたすき掛けの婦人たちが、湯茶の接待にあらわれ甲斐がいしくうごいていた。あの叔母さん達も、きっと息子や夫を戦地に送り出していることだろうと思った。銃後の守りを担う凛々しさが、彼女らの所作に感じられた。

 待合室に入ってから二時間半ほど経った午後一〇時すぎ、突然乗船命令があり、隊員が次々となだれ込むように乗船を開始した。雨まじりの風は依然として強く、足を掛けたタラップが船とともに大きく揺れていた。船室に入り指示通り外套を脱ぎ雑納袋を枕にして横になっては見たものの、周囲の者の動きが気になり、また体を起こして座る。船内には、先の青函連絡船で見られたような和やかさや、はしゃぎは全く見られない。行先がほぼ満洲であることは、下関駅に着いてまもなく兵士の間に知れわたっていたが、満洲の何処に落ち着くかは、未だに洩れて来ない。私も只だ何となく首を左右にやり、薄暗い船室の同僚達の動きを目で追いながら、この船旅だけは事故でも起きない限りは、寝てよし座ってよしで、引率下士官からの締付けもあるまいと思った。これは我々にとって、この先又とない時間と空間であることに気づく。先程からの同僚の動きも、それを承知かのように動作が区々であった。乗船後、かなり時間が経過しているが、未だ出航の気配すらなく、繋船の儘横波を受け左右に揺れていた。船室内の同僚たちも疲れをみせて、次々と体を横にしていく。私も彼等につられ雑納袋を引き寄せ枕にした。

 夜半、急にエンジン音が高まり、船の揺れが一層大きくなったことに気づき出航を知った。そこには、あの哀愁をおびたドラの音も無く、連絡船は兵員輸送船に早変わりして運航されていたのである。真狩村を発つ前、紙上で各海峡における連絡船の航行は、空爆と浮遊魚雷を避けるため、正常運行が困難な状況下にある旨を新聞記事で目にしていたので、この出航の遅れも、また強い風雨をついての出航も、軍当局の作戦指令に拠る運行とも受け取れるのである。出航後、連絡船の揺れは益々増幅し、寝ている私の内蔵が船底へ引き込まれたり、押し上げられたりする。隊員の中には既に吐いている者さえ出ていた。しばし耐えていた私も繰り返す内蔵の揺さぶりが気になり、体をエビのようにして睡眠を取った。

 翌朝、釜山港に着船した。昨夜の強い風雨は遠のき、港は静かに寄せ返す波が朝日をうけきらきらと光っている。船上から眺める釜山市街の一角には、これが日本とはとても思えない異国の光景であった。岸辺から丘陵にかけて褐色の住宅が所狭しと建て込んでいる。私にとっては初めて接する異国文化に目を奪われ、しばし兵士であることすら忘れ旅人の心境に浸った。その私の我儘を断ち切るように下船命令が出た。慌てて外套等を着けてデッキ上の隊列に入った。睡眠不足と船酔いが残っているせいか、隊員全体の動きが鈍いように見えた。桟橋を抜けて、釜山駅前の広場に整列し、柔軟体操を終えて休憩に入った。早春の冷たさが一入身に滲みる。街路を行き交う鮮人の風情に異文化がひしひしと感じられた。明治四三年八月、軍部主導の時の政府が行った韓国併合が、如何に民族問題を抜きにした植民地政策であったかを物語っているようにも思えた。そこには、自分が既に祖国を離れ、異国の土を踏んでいることを実感させられた。

 三〇分ほど経った頃、松尾伍長から整列の声がかかり、隊列は釜山駅ホームを出て、再び車窓に鎧戸を下ろした兵員輸送列車に乗車した。目隠同然の車内で、同僚とはいえ、最早兵士集団に身を置き、限られた内容で交わす会話では、若干の他人行儀と目に見えない四囲からの束縛が介在し、未だ戦友の心境には程遠いものが互いの胸にあるように感じられた。大阪駅まで同行した留寿都村出身の梶君の姿も、大阪駅下車後は、私の行動範囲内では既に彼の姿は見当たらなかった。

 発車後、車内を見渡すと、車両が国内車両に比べひとまわり大きいことに気づく、座席も腰高で全体がゆったりしている。これが話に聞いていた広軌鉄道かと思った。輸送列車はひたすら北上を続け、軌道を軋む音が尾を引くかのようにして次々と後に消え去る。若しこの車窓が遮蔽されていなければ、移り変わる車窓の景色がどんなにか慰めにもなり、多くの想い出を胸に刻むことが出来ると思えば残念でならなかった。途中の通過駅も停車駅も、只だ車輪音の変化で聞き分けるだけであった。制約された車内では同僚の私語も次第に途切れ、目を閉じて別れて来た肉親のことでも、思いやっているかの様子だった。私も吹雪の真狩村を出発してからの道順を追う様に思い巡らす。そしてまた、先々の自分の体力を案じた。又今与えられているこの貴重な時間を無駄にしないようにと、ふと浮かんだ軍人勅諭の暗唱を考えたが、これもままならず、今更慌てても仕方あるまい、全ては天命に委ねて頭を白紙に戻した。

 時折、引率下士官が交代に車内巡視した。なかには威厳を誇示するように、帯刀を左手で支え厳めしい顔つきで、座席毎に首を左右に振り確かめるようにして出て行く下士官もいた。きっと彼等の胸中には、お前等がのんびり出来るのは、今のうちだけだぞ部隊に着いたらしごいてやると、言い残すかのよう肩をいからせていた。軍隊生活の厳しさは村の先輩達から、実体験をとおして幾度となく聞かされていたから、それなりの覚悟はしてはいたものの、すべてが現実となった今、今後は自己の対応があるのみで、考えるより行動するしかないだろうと思った。

 列車はこんな兵士の思いをよそに、一路北上を続けていた。そのうち、かなり長い停車で、車内に私語も増え、僅かながら活気が出てきた。集団心理が働くのか、なにか救われたような感じがした。発車後間もなく夕食が配られた。握り飯をぱくつきながら、先程の長い停車を気にしていたが、食糧の積込みであったのだ。食後三〇分程たってから松尾伍長が現われ、いたわるような口調で、「お前たち早く寝ろ、座席に二人、座席下に二人と別れて寝ろ」と云って暫くは、我々の動作に目を細めていた。私も同僚に真似て、座席の下に潜り込んだ。傍目で見るよりは楽な姿勢で寝れそうだったので安堵した。車内の話声が途絶え静かになって来ると、線路を軋む車輪の音が全身に沁みいるようだった。暫くは寝つけず、何度か枕にしていた雑納袋を外し、肩をすぼめて寝返りを打っていた。

 翌朝、松尾伍長から夜半に鮮満国境の図門を通過し、現在東北満洲を走っていることを知らされた。愈々満洲に入ったのかと、小さく肩で溜め息を着く。でも、事ここに至っての心境となり、同僚達には兵士としての士気の高まりを見せ始めた。私もいよいよ満州国に入ったかと、背筋を走り抜けるような緊張を覚えた。今日も一日走り続けていたかと思われる頃、列車が思いの外静かに停止した。引率の松尾伍長が現われ、車窓の鎧戸を開けてもよいとの指示があり、われわれは待ちかねていたように一斉に鎧戸を開けた。停車駅が、牡丹江駅であることが確認できた。急に明るくなった車内を見渡し、あたかも身を正すように座り直している者さえいた。きっと下車命令が出るものと思っていたに違いない。

 ホームの数と長さから見ても、かなり大きい市街だと直感した。機関車の入れ替えが終わった列車は、あたかも夕日に向かって走るが如く、西に向けてまた力強く走り始めた。目隠しの取れた兵士の目は、移り変わる車窓の景色に釘付けとなっていた。私も離れ行く牡丹江市街の様子を丹念に拾うように見据えていた。市街外れの高台に高射砲台が据えつけられていたことも確認できた。そうして夕映えのなかを遠のく牡丹江市街にまた異国情緒を感じつつ、ふと若し満語に通じていれば、在満中にこの異国文化を深く探ることが出来ると思えば口惜しかった。そう思いながら夕闇の中でも、車窓から目を離そうとはしなかった。

 夜九時頃、駅ともつかぬ処で列車は徐行し始めた。外を覗き見ると幾筋かの線路が、点在する電灯の灯りできらきらと光っている。臨時停車だと直感した。しかし、列車は一向に発車の気配がない。そうしているうちに、車外に相当数の兵士らしい人影が行き来していた。事故でもあったのだろうかと思った矢先、松尾伍長が現れ、目的地の林口駅に到着した旨を告げ、下車の準備を命令した。余りにも咄嗟のことで、慌てて身繕いして待機姿勢をとった。下車命令が出たのは一〇分ほど経ってからであった。ホームの施設が無い線路脇に次々と飛び降りる。その場で直ちに隊列が組まれ、薄暗い停車場の敷地内を、線路沿いに隊列が動き出した。凍てつく北満の冷たさが、地下足袋の底からひしひしと全身を覆う。それは素足で氷上を歩くに等しいものであった。

 隊列が林口市街に入ると、土塀に囲まれうずくまっているような満人住宅街が左右に見える。満人達は、このひっそりとした佇住まいの中から、我がもの顔をして通り抜ける長い隊列を、どの様な思いで見ているだろうか。きっと長い間の抑圧との戦いで、諦めの境地にあるのだろうと思えた。隊列は厳寒の夜道を声もなく粛々と進む。丘陵の中腹にさしかかった時、私はふと振り返って見ると、薄灯りが点在する小さな林口街が、隊列の後に続いているかのように見えた。丘陵を上り詰め、林口神社の前を通り過ぎて間もなく、先頭隊列の引率下士官が、「歩調をとれ」と指揮をとったので、愈々衛兵所の前に差しかかったと直感した。我々の隊列が営門の前に着くと、松尾伍長の指揮で歩調をとり、営門を通り抜けて、将校下士官集会所という大きな兵舎施設に入った。