二 見えざる糸に手繰られて

 

 私が入営通知書を手にしたのは、その翌年、昭和二〇年一月五日の朝六時過ぎであった。当時、真狩郵便局で隔日交替勤務の朝、いつものように石炭ストーブの残り火に、石炭を入れて部屋を温め、吹雪のなかを帰って来る逓送手藤川さんの帰りを待つのが、なかば習慣的な仕事となっていた。この朝もさほど遅れることなく六時頃、藤川さんは目を細め笑顔で郵袋を背負って現れた。

 私は、早速到着郵便の区分に取り掛かった。何時もの手順で通数の多い郵便葉書から区分に取り掛かって間もなく、私宛の葉書に目が止まった。それは紛れもなく私への入営通知書で、一瞬息の詰まる思いであった。愈々俺にも来たかと声にもならぬ呟きをしながら、入営通知書を胸のうちポケットに入れ区分を続けた。しかし、暫くは区分する手先に緊張の震えを覚えた。私が到着郵便物の区分が終わって、付帯事務整理をしているころには、僅か一〇名足らずの内勤職員も出勤して仕事に取り掛かっていた。私と郵便・電信事務を交替勤務していた相棒の大高君に事務引き継ぎを済ませ、女子職員が出してくれた番茶をすすりながら、先刻目を通した、入営通知書のことをあれこれと思いやっていた。

 何時も職員より一足遅れて、局舎と隣合わせの自宅から出勤した村上局長に、入営通知書を差し出し、入営通知があった旨を報告した。村上局長にとっても、職員の私に、いずれこの日が来ることを予想していたと思うが、現実となった今多少の動揺は隠せなかった。この様子に気づいた職員達にも、動揺に似たざわめきが一瞬起こった。

 入営通知書を手にしてから、既に三時間余り経過している私にも、この情景につられ新たな感慨と緊張が走った。若し、この入営が三年くらい前のことであったら、入営は名誉なことと意義づけ、早速職員仲間から元気づけと祝いの言葉で迎えられたであろう。そして私もそれなりの感動を味わっていたことだろうが、昨今の戦況ではこの通知書は、まさしく片道切符を意味するだけに、周囲の者の気遣いは複雑なものがあった。

 いつもの退出時刻より遅れて、一〇時過ぎに局舎を出て帰宅の途についた。深く垂れこめた雪雲に覆われて、何時も目前にしていた羊蹄山の姿も見えず、なにか私の前途に、立ちはだかる運命を予感するかのように見えた。そうして不思議にも、見慣れているはずの雪に埋もれた街並みに新鮮さを感じた。

 家に帰り、雪に埋もれて薄暗い居間に入って、兄嫁が日々欠かさず出征中の主人と三兄への陰膳の前で、ひとり遅い朝食を取った。優しい兄嫁のことだから、この先、もう一つ私の分が加わる事だろうなぁと思つた。

 たまたま母も居合わせたので、私も思いきって内ポケットから入営通知書を取り出し、「お母さん、姉さん、遂に俺にも来たよ」と云って差し出した。文盲に近い母には、この葉書の文面が分かろう筈がないが、母は、私の言動と兄嫁が咄嗟に洩らした、「アラッ」と云う一言に直感し、「そうかお前にも来たかぁ」とポッリと呟きを洩らした。

 母は既に還暦を過ぎていた。昭和十二年の春、次男鷲一の現役入営から始まり、昭和一四年五月、ノモンハン事件で戦傷を負い帰還したが、昭和一八年には三男為義を現役入営で送り出し、北支方面で転戦中であった。そのうえ、よもやと思っていた長男栄を、昨一九年七月招集で横須賀海軍基地へと、既に三人の息子を送り出していた。気丈夫な「軍国の母」であったので、四男の私の招集は所詮覚悟の上ではあったが、親心を言葉で付け足す様に、「お前は身体が丈夫でないからな」と呟くように一言洩らした。そのあとしばらくは、母も義姉も心の整理をするかのように沈黙が続いた。母が突然、「それで何時発つのや」と確かめる様に声を掛けてくれたので、私も内心救われた気がして、すかさず、「二月十一日に発ち、大阪に集合することになっている」と答えると、「未だ間があるのぅ」と言い残して奥の仏間へ消えた。おそらく亡き父の仏前に、私の入営を報告していたのであろう。

 私も一五才頃、一時、将来軍人で身を立てようと思い、勝手に自分の力量に合わせ東京陸軍戸山音楽学校とか、横浜陸軍工科学校を志望するほどに、若い情熱を燃やしていたことがあったが、健康を害してからはその気迫も失せ、そのうえ今の戦況では入営通知書を手にしても、過去のような情熱は微塵にも湧いてこない。ただ、大阪に集合した後、その先はどこへ流れて行くのやらと、ぼんやり考え込むのであった。

 当時、わが家の親戚と云えば、母方の叔父叔母が主で、その他の縁戚を加えても十指に数えるほどであったので、挨拶回りには、そう時間を要する事ではなかったが、村上局長の計らいで、郵便局の勤務を一月下旬で切り上げ、気分転換を兼ね親戚への挨拶回りに出かけた。普段殆ど訪ねる機会がなかった叔父叔母の家では、冬期でもあったせいか、何処の叔父叔母も在宅し、私の訪問を待ち受けていたように招き入れ、心尽くしの手料理をご馳走に預かった。自家製の濁り酒で交わす杯の合間に出る話は、何処の叔父叔母も判で押したように、既に戦場に送っている息子にまつわる話ばかりで、一向に私の入営などは話題とならず、むしろ出征中の私の兄達のことを気遣った話で終始した。でも、祖母の原田家を訪ねると、叔父叔母は勿論のこと祖母は、「遠いところをよぅ来てくれたのぅ」と丁重に迎い入れてくれた。祖母は私がもの心ついた頃から、腰を屈め杖を頼りにして年に一、二度わが家を訪ねてくれていたが、八〇歳を超えてからは、楽しみにしていた孫宅巡りから足も遠のき家に籠りがちであったので、私の訪問が事珍しく迎い入れられたのであろう。

 祖母に招き入れられた仏間で、祖父の仏前に線香を上げ、祖母と向き合い、「お元気のようで結構ですね」と、私としては精一杯のねぎらいの言葉をかけた。すると祖母は、「芳勝も兵隊に行くんだってなぁ」、「男の孫は皆行ってしまうのぉ」と、祖母らしく孫への愛情の籠った言葉がしんみりと返ってきた。私も内心このたびが、祖母の顔の見納めになるのではないかとふと思った。慶應という遠い歴史のなかで生を享け、動乱の明治、大正、そして昭和を風雪のなかで開拓に生き、八〇余年の女の一生をどう意義づけながら生きて来たのだろうかと、それは、とても若輩の私などに許される想像の域ではなかったであろう。長男喜三郎を、第一次山東出兵で送り出し、内孫を既に今次大戦に送り出していた女の気丈夫さはもとより、何もない山里のなかで、開拓という命題に希望の火を灯し続け、永年天地の厳しさと闘い続けて今日を築き上げたとはいえ、人間祖母の生き様をどう捉えればよいのだろうかと、ふと問い掛けて見たくなるのであった。

 これに比べ僅か二〇余年を生きた私が、今征で行く軍隊の苦労なんか、どうあらうとも小さく短いものであると、自戒の念に駆られた。「芳勝が帰って来るまで、わしゃ生きとらんじゃろうなぁ」と云われ、私はすかさず、「おばぁちゃんより僕が先に逝って待っているょ」と答え返すと、「死なんで帰ってこいょ、母さんが待っているょ」と、首を左右に振り世を憚るように耳打ちして、微笑みを洩らした。翌朝、玄関先で別れの挨拶を告げた時、祖母の優しい目に光っていた涙は、私にとって生涯の思い出から消えることはないだろう。

 昭和二〇年に入ってから、報道される戦況は著しく悪化し、軍当局は本土決戦を意識してか、軍機密保持の下、国内における思想統制が強まり、出征兵士の壮行会の開催は勿論、見送りすらまかりならぬとの示達が出ていた。私の送別会も村上局長の計らいで、ひっそりと局長宅で職場の皆さんと簡単な夕食を共にしただけで終わった。

 私の親戚への挨拶回りも、雪道を徒歩で精力的に歩き、最後に親しくお付き合い頂いていた兄嫁の姉宅に顔を出し、帰途仕事上でお世話になっていた隣村留寿都郵便局の職員の方々にも挨拶申し上げて辞した。その折り局舎の玄関先まで見送りに出て、あれこれと気遣ってくれた若い女子職員清水さんの心配りを、帰路吹雪の中で温めながら帰宅した。

 愈々明日はお発ちかと思いながら、母や妹、義姉と子供たちで丸い食卓を囲み、私は夫々の顔を確認するようにしながら夕食を済ませた。出発準備といっても取り立てある訳けではないが、なんとなく心の動揺を押さえる積もりで自室に入り、大勢の方々から励ましやら無事を祈念する心の籠った寄せ書きの日の丸と、千人針を小さくたたみ、心なし力落としていた母の手から差し出された風呂敷に包み込む。私はふと、昨年応召されて発って行った兄が、この同じ場面でどう思っていたことだろうか。あの時期には、まだ壮行の酒宴に酔いしれるひと時こそ持てたが、妻子と老いた母を残し、明日からの家族の生活を憂い、心残りが多かったことだろうと思った。その夜は床についてから暫くは寝つかれず、確かめるように腹の傷に手を当てて、若しや、この傷のため大阪から帰されるのではないかと、誠に非国民的な考えが頭をよぎった。でも、そのことは、自ら恥じるように強く打ち消した。

 二月十一日朝、わが家の玄関先で、隣近所の人、僅か四、五人の方々に激励を受け、近所に住んでいた原田の叔父が仕立ててくれた馬そりに乗り、まるで落人が密かに都落ちする姿にも似た哀れな門出であった。吹雪のなか、馬鈴を鳴らして遠ざかりゆく雪に埋もれた真狩市街に、新たな愛着を覚えた。吹雪の簾をくぐるようにして狩太駅までの十二キロメートルの雪道を、叔父の力強い手綱さばきで小走りする馬そりに体を預けて狩太駅に向かった。十一時過ぎに狩太市街に入り、私は岩田写真館の前で馬そりを降り、人並みに写真を撮り、これが母への最後の贈り物と思い、真狩の母宅に郵送方を依頼して駅に向かった。駅前の坂道で、雪に埋もれた街並に、紀元節を慶祝する国旗の波が目に入る。先程見送る人影もなく淋しく発つて来た私にとって、人影こそ見られないが、なぜか旗波が、沈みがちであった私の士気をかりたたせてくれた。

 古びた駅前旅館の二階座敷で、義姉と叔父等四人が、私の来るのを待ち受けていたかのように、家から持ち込んだ弁当を手早く開いて私にすすめた。私にはさほど食欲もなかったが、此処まで見送り頂いた叔父等の手前も考え、巻きずしを二個つまんで、宿から差し出された番茶で追い込むように飲み込んだ。私は膝を改め、「叔父さん達今日は寒いところ、ここまでお見送り頂き本当に有り難う御座いました。この先は元気で頑張ります。また後のことをどうぞ宜しくお願いします」と、型通りにお礼と別れの言葉を述べた。義姉が小声で、「残った者はどうにかやって行くから心配しないで」と云いながら、食べ残りになった弁当を包み直して、私に手渡してくれた。僅か一時間足らずの宿での休憩を終え、古びて狭い狩太駅の待合室で、石炭ストーブを囲み暖を取りながら、軍が乗車指定した列車を待っていた。

 午後一時半すぎ、遠くから喘ぐように近づいてくる蒸気機関車の音を耳にしながら、改札口を出てホームに立つた。まもなく到着した上り列車の前で、叔父や義姉に再度別れの挨拶告げて乗車すると、娑婆の全てを断ち切れと合図するかのように、高い汽笛とともに列車が動き出した。その時、ホームのはずれで、頻りに手を振ってくれていた二人の狩太郵便局女子職員が目に映った。汽車は雪深い谷間をぬって喘ぐように、函館駅に向かって走り続ける。私も早朝からの緊張で疲れを感じ、肩を落とすように座席に掛け、目を閉じ線路の軋みに身を委ねた。陽暮れて暗闇のなか、蒸気機関車は喘ぐように走り続けた。私は時折、沿線の住家の薄暗い灯りが、近づいたり離れたりする夜景をなんとなく見つめていた。

 午後八時過ぎ、列車は函館駅に到着した。私も内心追い立てられるように、そそくさと網棚の風呂敷包みを小脇に抱えホームに降り立った。ホームを通り抜ける浜風の冷たさを頬に感じながら、ホームの前後を見ると、既に同行兵士の隊列の中に自分がおかれていることに気づいた。そうして、この指揮官無き隊列が粛然として流れるように青函連絡船桟橋を通り抜け、連絡船三等船室に入って行ったのである。

 同じ船室の客は、大半が我々仲間であったせいか、最早戦友気取りで、出身地を前置きした自己紹介を交わし手を握り合っていた。私と紹介を交わした者達は一九年徴集兵で、道内の各地から寄せ集められていることを知った。また、職業も区々であるところから、どの様な部隊に入隊するのか、全く見当も付かない。乗船して半時も経った時、私を訪ねて来た男が居た。私にとっては初対面であったが、留寿都村の梶と名乗ったので、直感的に親近感が湧く。彼は話の中で郵便局に勤務している女子職員清水和恵のことを話題に乗せて、彼は私のことを知り尽くしているかのように話を続けた。私にとっては、この様に身近な会話が出来る戦友が、こんなにも早く現れてくれたことを心強く思った。仮眠のまえにデッキに立つて見ると、船は夜間最も恐れる浮遊機雷を警戒しながら、暗闇の中白い航跡波を次々と残して進んでいた。私も唯一つの持ち物である風呂敷包みを枕に仮眠を取ることにした。

 夜半過ぎ船内のざわめきで、青森桟橋着船を知り、直ちに身繕いして同僚の後を追うように下船した。青森駅のホームに出ると吹きさらす夜半の浜風のなかで、大阪行きの一筋の列車が、灯火管制下の薄暗いホームで待っていた。私は連絡船で話し合った梶君と同席して、かなり使い古した窓側の座席に座った。

 全員乗車すると、乗車前のホームのざわめきも消え、夜半の津軽の浜風が風音を立てて通り抜けていく。薄暗く寂寞とした長い青森駅ホームに、数人の見送り人が、柱の影から車窓に向き合い、視線を合わせて、たじろぎもせず立っていた。きっと青森出身の兵士を見送る縁者だろうと思った。一〇分程して列車は、発車のベルを待ち兼ねていたように汽笛を合図に、ホームの柱と灯りを一つひとつ見送るように遠ざけて発って行く。発つ間際までざわめいていた車中も、青森駅をあとにしてから間もなく話し声も途絶え、静かさを取り戻した。真夜中の車中には、線路を軋む音のみが漂っていた。普段から寝つきの悪い私は、大阪到着後のことをあれこれと考えながら、目を閉じて眠りを待ったが、頭が冴えて弘前駅を発ってからも、幾つかの通過駅を見送っていた。やがて夜が明けた。私も寝不足の目を見張るようにして車窓を見ると、列車は雪の北陸日本海沿岸を蛇行するように走り続けていた。

 列車が大阪駅に到着したのは、午後三時をまわっていた。つい先程まで雪景色の中を走り続けていたので、既に春めいた大阪駅頭が、事珍しく目に映った。しかし、そのような悠長な詩情的感情を、恰かも断ち切るかのように、出迎えの係官の集合命令が耳に入った。もうそこには、軍隊への入口を意識した。たった今下車したばかりの多勢の同僚達は、即座にグループ分けされ、係官の引率に従って天王寺周辺に点在する指定宿舎に分宿することになった。