一 戦火は燃え拡がる

 

 一九四一年十二月八日、日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃し、対米英に宣戦布告したとの大本営発表を私が耳にしたのは、札幌逓信講習所藻岩寮で、夕食を済ませた直後のことであった。寮内にも一瞬緊張感が漲り、私も背筋に悪寒が走り、暫くは身の震えが止まらなかった。当時一七才の私でも、一九三七年七月から四年余り続いていた日華事変で、かなり国勢も疲弊しており、国民も長く続いた戦時体制下の生活に疲れていた矢先、世界最強の米英との交戦は、まさしく軍部の無謀であって、国民のなかには悲愴感が漲っていたように思えた。その夜のニュースでは、大本営から国民の士気昂揚のため、真珠湾攻撃の戦果を繰り返し発表していたが、先行きの不安のみが駆り立てられていた。

 一九三一年九月、満洲事変に端を発し、その翌年三月、満洲国を建国させ、上海事変を起こす一連の軍閥の野望が次々と止め度もなく膨らみ、一九三九年九月勃発した第二次世界大戦に相乗りするかの如く、一九四〇年九月に、日独伊三国軍事同盟を締結し、その翌年、遂に行き着くところに恰も行き着くように太平洋戦争に突入したのである。

 私も太平洋戦争開戦となった十二月の暮れに、札幌逓信講習所を戦時繰り上げ卒業となり、出身地の真狩郵便局に配属となって帰郷した。

 悪夢で明けた一九四二年正月早々、政府は、毎月八日を大詔奉戴日と決定して、国民の精神昂揚を図り、二月には、食料管理法を制定して主要食料の統制を実施、衣料についても衣料切符制がとられ、更に三月には、生鮮魚介類まで統制がしかれた。国民の日常生活はまさしく戦時体制一色となった。こうも緊張した国民生活に追い打ちをかけるように、四月には、米空軍機の日本本土空襲があり、戦火がひたひたと身近かに迫ってきたのである。海外に拡大していた戦況も次第に危ぶまれ、七月にはミッドゥエー海戦に破れ、一九四三年二月、ガタルカナル島を撤退するなど日本軍の敗色が一層強まってきた。

 田舎に住んでいた私達村人にとっては、軍部が検閲した情報である新聞、ラジオしか見聞きすることができなかったので、戦況とその行くえは知る由もなく、唯々戦意昂揚のため志気に鞭打たれる日々が続いた。このような状況下で、真狩村でも若衆が、時を追って次々と招集され、「天に代わりて不義を打つ」村人の歓呼の声に送られ戦場へと発って行った。この情景は、戦争の過酷さと、兵士に衣替えした男とその家族の惜別に哀感を感じたのは、私一人ではなかったであろう。また、そうした情景と全くうらはらに、「名誉の戦死」と讃えられ、白木の箱におさまり遺族の胸元に痛々しく抱かれ帰還した戦死者、在りし日の勇姿と情熱を重ね合わせると、哀感胸に迫るものがあった。

 こうした厳しい戦況の中、私も徴兵年齢に達し、一九四四年八月一五日、後志支庁倶知安町において徴兵検査を受け、徴兵監から即刻、「第二乙種合格」と申し渡しをうけた。当時、農村育ちの私の体格では、甲種合格することは間違いなかったが、一七才の春一月、盲腸炎を煩い腹膜炎を併発して手術後、腹壁ヘルニァとなって腹腔部に小さな傷口が残っていたので、徴兵監も既往症がある廉で、「第二乙種合格」に認定したのであろう。また、私自身も術後、ここ三年ほど毎日のように腹孔患部の手当を気遣う生活を続けていたから、徴兵監の申し渡しが、至極当然のように聞こえた。

 一緒に検査を受けた同僚達のなかには、最早兵士気取りで、日頃青年学校で叩き込まれていた、「軍人勅諭」を口ずさむ者すらいた。そうして彼らはその後数十日のうちに、次々と何処へとなく村を密かに発つて行った。したがって、その年の暮れには、私の目の届く範囲には、既に同期の若者の姿が見当たらなくなっていた。小さな街並みを通勤する私の姿を見て、村人はあの人は体が悪いから残っているのだろうと、同情ともつかぬ囁きすら聞こえて来るのであった。