GENESIS

(18)

 僕は声のした方を振り返り、息を呑んだ。
「イヴォンヌ…」
 それだけ言って僕は絶句してしまった。
 彼女は、通りに面した窓のない煉瓦づくりの建物の入口に立っていた。その建物だ
け、周囲の他の建物と違って手入れがきれいにゆきとどいている。入口は異様に狭く、
人ひとりがやっと通れるくらいの幅しかない。彼女は明らかに肉体を見せることを目
的として作られたシースルーの薄物を身にまとい、信じられないほど丈の短い黒のタ
イト・スカートと網タイツ、それにピン・ヒールの靴をはいていた。薄物を通して彼
女の小さな乳房と乳首がはっきりと見えている。
 僕が茫然としたまま立ち尽くしていると、彼女はゆっくりと通りに出てきて僕の目
の前にやってきた。香水の香りがふわりと纏わりついてくる。
「どうしたのよ?」
「どうしたのよって…」僕はうまく言葉を出すことができない。「…君こそ何してる
んだよ?」
「ちょっとね」
 彼女は涼しい顔で答えた。
「なんだよ、ちょっとねってのは」
「いいじゃないの別に。したいからしてるだけよ」
「してるって…だからってこんなところで…」
「こんなところって何よ」イヴォンヌは少し怒ったような表情を見せた。
「いや」僕はあわてて言った。「つまり、知らない不特定多数の人たちとそんな」
 彼女はいたずらっぽく笑った。「ふふ。大丈夫。ここはすごく値段が高いから、そ
れなりのお客じゃないと入れないの。だから、不特定多数というほどでもなくて、だ
いたいお客さんは固定してるのよ」
「いや、そういうことじゃなくて…」
「ま、いいじゃない。私が好きでやってるんだから」
 彼女はそう言うと、すっと身をかがめ、素早く僕の唇にキスをした。
「わ」僕は驚いてつい大声をあげてしまった。「何するんだよ」
「ふふふ」彼女はいたずらっぽく笑った。「どうしたのよ。そんな大きな声を出して」
「だって…びっくりするじゃないか」
「なにも驚くことなんかないじゃない。ただのキスだもん」
「いやまあ、そりゃそうだけどさ…」
「あ。照れてる照れてる」
 彼女は笑って、僕に覆い被さるようにしてしなだれかかってきた。僕は彼女の身体
を受け止め、ちょうど抱き合うような格好でそのままじっと立っていた。香水のいい
匂いが僕の鼻腔をくすぐり、彼女のあたたかい体温がほんのりと伝わってくる。それ
にしてもこうしていると、彼女は本当に女性にしか見えない。しかもとびきり美しい
女性だ。
 そのうちに、困ったことに僕のペニスが固くなってきてしまった。僕はさりげなく
腰を引いてごまかそうとしたのだが、彼女はすばやく僕の腰に手を回してそれを阻止
し、逆に自分の腰に引き寄せてぴったりと密着させてきた。彼女の小さなペニスも固
くなっているのがはっきりとわかった。しかし不思議なことに嫌悪感は感じなかった。
僕はストレートのはずなのに、なぜ平気なのか自分でもわからなかった。
 僕たちはそうやって、しばらくの間おたがいに腰を押しつけあいながらじっと抱き
合っていた。彼女は何も喋らなかった。ただ、湿った彼女の息の音が僕の耳のすぐ後
ろから聞こえてくるだけだった。僕も黙ったまま、彼女の身体から離れようとはしな
かった。
 その時、僕は不意に背後で誰かが歩きだす気配を感じた。振り向くと、急ぎ足で傍
の角を折れる人影がちらりと見えた。
 僕はイヴォンヌから離れ、人影を追った。角を曲がると、大柄な影がさらに先にあ
る別の路地へと姿を消すところだった。僕は懸命に走ったが、その路地への入り口に
たどり着いたときには、すでにそのあたりには誰の姿も見当たらなかった。
 仕方なく荒い息をつきながらもとの建物の前に戻ってみると、もうイヴォンヌの姿
はそこにはなかった。僕は大きく溜息をつき、通りを抜けてまっすぐアパートメント
に戻った。
 アパートメントには誰もいなかった。まだ日暮れにはずいぶんと早かったが、僕は
戸棚からモランジの瓶とグラスを出し、そのまま自分の部屋へ入った。
 窓枠に瓶とグラスを置き、僕はベッドにどさりと腰をおろした。ひどい疲労感が頭
の奥からどろりとあふれ出てきて、僕の頭から首、肩、背中をずっしりと満たしてい
った。僕はその重さに耐え切れず横になった。そして頭がベッドカバーに触れた瞬間、
まるで誰かがスイッチを切ったかのようにぷっつりと僕の意識は途絶えた。
 それからどれくらいの時間が経ったのか、僕は誰かの気配を感じて目を覚ました。
いや、気配というよりも体重だ。あきらかに誰かが僕の上に乗っていた。そして下半
身には何か鈍く重い、甘ったるい感覚がある。
 目を開けると、目の前にすべすべのひきしまった裸の腹と小さな乳房が見えた。見
上げるとそれはイヴォンヌだった。彼女は全裸で僕の上に乗っていた。両膝を立て、
大きく脚を開いて、僕の上に跨っているのだった。いつの間にか僕の下半身は裸にさ
れている。
「わ」
 僕は思わず上体を起こした。その拍子に彼女はバランスを崩し、あやうくベッドか
ら転げ落ちそうになった。
「なによ急に。危ないじゃない」
 彼女はベッドに両手をついて体を支え、かすれた声で言った。
「何してるんだ?」僕は言った。「だいたいどうやって入ってきたんだ?」
「そこのドアから普通に入ってきたわよ。鍵はかかってなかったし」
 そう言えば部屋のドアに鍵をかけた記憶はない。
「それにしてもおまえ、何を…」
 僕の言葉は途中で彼女の指によって封じられた。
「いいじゃない、わたし一度あなたとしてみたかったのよ。今なら誰もいないわ。リ
ディアもまだ帰ってくる時間じゃないし」
「いや、だけど…」
「だけども何もないの」
 彼女は僕の唇に指を当てた。
「したいからする、それだけ。…大丈夫よ、私は誰にも言わないから」
「違う」と僕は言った。たとえ誰にも言わなくても、秘密がバレることはあるのだ。
「それに私は男だから、浮気にはならないわよ」
「だから都合のいい時だけ男に戻るなって言ってるだろう」
 彼女はそれ以上僕の言葉を聞かず、ふたたび僕の上に乗ってきた。彼女は少しでも
奥まで僕のペニスを味わおうとするかのように強く腰を押しつけて大きくくねらせ、
そして激しく出し入れした。僕はわけのわからないうちにたちまち絶頂にのぼりつめ、
あっという間に射精してしまった。それまでに経験したことのないような、爆発的な
射精だった。
 彼女はしばらく僕に寄りかかって荒い息をついていたが、やがて僕から離れると僕
のペニスからコンドームを抜き取り、小さく萎んだ僕のペニスを咥えてまるでいつく
しむように丁寧に舐めた。いつの間にかコンドームまでかぶせられていたのだ。する
と、僕のペニスは彼女の口の中でふたたび固くなってしまった。それに気がつくと、
彼女ははっきりと歓喜の表情を浮かべ、音を立てて僕のペニスにしゃぶりつき、どこ
からともなく取り出した新しいコンドームを素早くかぶせると、ふたたび僕の上に乗
ってきた。どうしてよいかわからないままに僕はふたたび快感の大渦の中に放り込ま
れ、自分の意志の及ばない何か巨大な力に翻弄されたあげくまた激しく射精した。
 どれほどの時間がたったのか、我に返ると、いつの間にか彼女は僕にぴったりと寄
り添って横になっていた。僕の下半身はじんじんと痺れ、奥に重い痛みすらともなっ
ている。
 彼女は眠っていなかった。彼女は僕が我に返ったのに気づくと、にっこりと微笑ん
で僕にキスをし、それからするりとベッドから抜け出すと、床から何かを拾い集めた。
見るとそれは使用済みのコンドームだった。驚いたことにその数は九つに及んだ。彼
女はそれらをまとめてティッシュにくるんで屑入れに捨て、そして椅子にかけてあっ
た自分の下着と服を手早く身につけると「じゃあまたね」と言って部屋から出ていっ
た。
 僕は部屋にひとり残され、呆然とベッドの上に座り込んでいた。いったい今のは何
だったのだろう?僕の頭はまだ完全には覚醒しておらず、頭蓋骨の中に脳のかわりに
粘土でも詰め込まれたかのようだった。何かを考えたり思い出そうとしても、頭の中
には一面に重苦しい灰色の雲がたちこめ、記憶の断片が時おり意識の表面に浮かんで
は泡のように消えていくだけだった。しかし現実として、僕の下半身には紛れもない
甘ったるい射精の余韻がまだじいんと残っている。
 僕はのろのろとベッドから降りて、床に落ちていた下着とジーンズをはいた。動作
までが緩慢になっていた。それから、窓枠に置きっぱなしになっていたモランジを取
り、グラスにそれを満たしてひと息にぐっと飲み干した。モランジは食道を刺しなが
ら胃袋までおりていき、胃壁をじりじりと焼いた。その痛みと熱さのおかげで少し意
識がしゃんとしてきた。
 僕はさっきイヴォンヌが捨てた、ティッシュでくるまれたコンドームを屑入れから
出すと、窓を開けて外に放り投げた。それは自身の重みで風に流されることなくほぼ
まっすぐに落下していき、隣の低いビルの屋根に落ちた。
 僕はしばらくそのまま窓を開け放しておくことにした。僕の鼻は慣れてしまってい
るので感じないが、きっと部屋には精液の匂いが充満しているに違いなかった。それ
を一刻も早く部屋の外に出してしまいたかった。
 文字通り、寝込みを襲われた格好だった。おそらく、さっき通りで会ったときから
彼女はこうしようと狙っていたのだ。…いや、彼女は「一度あなたとしてみたかった
のよ」と言っていた。ということは、もっと前からチャンスを狙っていたのかも知れ
なかった。僕は彼女と初めて会ったときのリディアの反応を思い出した。
 僕はふたたびグラスをモランジで満たし、瓶とグラスを机に置いた。そして椅子に
座ってしばらく窓の外を眺めた。すでに太陽は地平線の下に没しており、空は急速に
薄墨を流し込んだような群青色に変わりはじめていた。窓のカーテンがわずかに揺れ
ている。薄暮のなか、街のあちこちでぽつぽつと灯がつきはじめていた。僕はちびり
ちびりとモランジを舐めながら、空がすっかり闇に覆われていくのを眺めた。空には
星がひとつもなかった。雲ひとつなく晴れているのに星が見えないことに僕ははじめ
て気づいた。
 僕はその晩、どこにも出かけず、何も食べずにそのまま自分の部屋でモランジを飲
み続けた。いくら飲んでも酔わなかった。飲めば飲むほど覚醒していくような感覚さ
えあった。僕はモランジの瓶を一本空けてしまい、リヴィング・ルームに行って戸棚
の中を探した。まだ封を切っていない新しい瓶が見つかったので、僕はそれを持って
部屋に戻り、さらに飲みつづけた。リディアもナーモも帰りが遅く、何時になっても
帰ってこなかった。イヴォンヌの部屋のほうからも、こそりとも音が聞こえてこなか
った。彼女は今いったい何をしているのだろうか。性欲を満足させて気持ちよく眠っ
ているのだろうか。それとも、さらに欲望を満たすべくふたたび外出してしまったの
だろうか。とにかく屋内に人の気配というものがまったく感じられないのだった。開
けっ放しの窓からも、いつものようなざわめきは聞こえてこない。いや、本当はいつ
もどおりそれは街から立ちのぼっているのかも知れないが、僕の耳には何も聞こえて
こなかった。