武蔵・忍

三成・苦悩の城攻め 
―――諸勢、水攻めの用意候いて、押寄る儀之無―――



  (三成が城攻め本陣を置いた丸墓山から、忍城方面を望む)


「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、(中略)然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」(忍城攻めのことについては、大体準備はできました。しかし諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。)
--忍城水攻め開始直後、三成が浅野長吉に宛てた書状より



 石田三成の忍城攻め--

 三成の忍城攻めは、その生涯の中で特筆すべき事項です。
 若干31歳の三成は、このとき初めて三万近い大軍の指揮官に任じられました。
 その三成が向かった忍城は、後北条氏の重要拠点で、関東七名城の一つと言われました。
 三成は、この忍城を水攻めにしようとしますが上手く行かず、結果的に寄せての十分の一程度の兵力の忍城は、三成軍の攻撃に一ヶ月以上わたり耐えぬきます。

 城を落とせなかった三成に対し、
「三成は戦下手だ。」
「三成は、やはり官僚であって、戦略眼はない。」
「関ヶ原で、家康に負けたのは当然だ。」
「水攻めだって秀吉なら成功させた。猿真似した三成が失敗したのは当然だ。」
・・・という風評が、後世に巻き起こりました。三成に比較的好意的な史家でさえ、三成の忍城攻めには厳しい目を向ける人が多くいます。

 しかしそれは真実なのでしょうか?
 当時の史料を追っていくと、三成自身は、忍城は水攻めに不向きな城であることを理解していたにも関わらず、主君・秀吉によって、水攻めを無理強いされていたことが窺えます。
 冒頭にあげた書状は、その事情を窺わせる史料の一つです。
 忍城が中々落とせなかったのは、三成の戦略眼の欠如によるものではなく、水攻めに固執する秀吉の指示によるものと考えると、状況が良く理解できます。
 三成は困難な状況の中で、必死に主君の命に応えようとしていたのです。

 98年に「歴史群像」に発表したこの説は、その後、多くの識者の方の共感と同意を得ることができました。
 
詳しくは、本ホームページ「忍城攻め−戦国の中間管理職・三成の悲劇」をご覧下さい。


三成本陣跡(丸墓山)

    三成が本陣を置いた丸墓山です。
    古墳跡で付近では稲荷山鉄剣が出土したことでも有名です。
    忍城周辺は全くの平坦地で、本陣を置けそうなのは、このよう
    な小丘陵しかありません。
  
 
丸墓山付近

    本陣付近には往時の様子を彷彿させる低湿地が 広がってい
    ます。
    
 
石田堤跡

    忍城近くの荒川沿いには、今も三成が築いた堤跡が残っています。
    江戸期は治水にも使われたと言います。
 
石田堤史跡公園(その1)

    現存する石田堤の一部に「石田堤史跡公園」が作られています。
    堤の断面が観察できるようになった施設(写真)のほか、各種
    史料の写し等も屋外展示されています。
    またタイムワープゾーンなる怪しい(?)設備もあります。
   
石田堤公園(その2)

    公園内にある史料を見学するオンライン三成会の面々。
 
忍城跡(行田市郷土史料館)

    忍城本丸跡には、行田市の郷土史料館が建っています。
    中には三成水攻め関係の史料も展示されています。
    外観は、江戸期の三階櫓を模しています。
    三成の忍攻め当時は勿論、このような建物はありません。
     


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