石田三成の逸話

ここでは石田三成公の人となりを語る、逸話の数々を紹介します。
ここに紹介する内容は、すべてが信頼できる史料に記された内容ではありません。後世に創作された逸話も多いと思われますが、三成公のイメージを理解する一助になると思いますので、そのまま記載しています。

逸話 其の壱 その出生から青年時代
 三成が秀吉と出会い、その幕下の俊才として活躍した頃の逸話です。

逸話 其の弐 その最期
 秀吉の死後、三成が関ヶ原合戦を起こし、その敗戦後処刑される際の逸話です。

逸話 其の壱 その出生から青年時代

一、三献の茶
ニ、賎ヶ岳での活躍
三、君臣、禄を分かつ(島左近仕官の逸話)
四、葦の運上/淀川堤の補修など


一、三献の茶 〜三成・秀吉、出会いのエピソード

三成の逸話でも、最も有名なのが、この逸話ではないでしょうか?
滋賀県・長浜駅前には、この三献茶に因んだ三成と秀吉の像もあります。「砕玉話(武将感状記)」等に記された、この逸話の概要だけ記せばこんな具合です。
「長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた。
その帰途、喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望した。対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となったのである。」
喉の乾いている相手に、まずは飲みやすい温めの茶をたっぷり出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらう・・・この逸話は気配りの進めとして、広く語られています。
三献茶の舞台となった「ある寺」とはどこか、という議論も賑やかです。今のところ、大原・観音寺と古橋・法華寺が有力で、観音寺には「三成茶汲みの井戸」もあります。

ただこの逸話が真実か?、ということになると大いに疑問があります。逸話が載っている史料が、いずれも江戸期の俗書の類であること、三成の息子が記した寿聖院「霊牌日鑑」では三成が秀吉に仕えたのは、十八才の時に姫路で、となっており、この逸話とは符合しません。
この逸話は、江戸期に創られた他の多くの三成の話と同じく、三成の出自を寺の小僧とおとしめるで創られた、との説もあります。
長浜駅前に立つ、秀吉三成「出会いの像」

ニ、賎ヶ岳での活躍

 三成には、どうも青白いエリート、秀才、陰謀家とのイメージがあるようです。もちろん実像は異なるのですが、そのためか、どうもあまり武勇に長けていない人物だ、と見られがちです。
 しかし、そのようなイメージを打ち破る活躍をしたことが、賎ヶ岳での記録に残っています。賎ヶ岳での活躍といえば、まず加藤清正・福島正則ら、いわゆる七本槍が浮かぶのですが、三成もこの時、先懸衆として彼らに劣らぬ活躍をしたとの記録が、「一柳家記」に見えます
 
賤ヶ岳古戦場碑 合戦城跡の光景
賎ヶ岳の追撃戦は、秀吉にとって、近習・親衛隊までつぎ込んだ総力戦でした。その中で三成も果敢な活躍をしたとも考えられます。ただし、一柳家記原文では、戦いで活躍したのが三成かどうかの断定は避けています。
賤ヶ岳では、三成は諜報にもあたっていたことが、「称名寺文書」にあり、三成の本領はこちらにあったとも考えられます。
いずれにせよ三成は戦略眼にも長けており、一般の文官的なイメージと異なり、武将としての資質も優れたものであったと考えられます。例えば忍城攻め・朝鮮の役などでも、確かな戦略眼を見せています。このことは、また稿を改めて紹介します。

三、島左近を高禄で召し抱える 〜君臣禄を分かつ

 「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城(島の左近と百間の橋、ともいう)」
と言われ、小説・劇画等で良く取り上げられる、三成の重臣・島左近ですが、この左近が三成に仕えるにあたっても、有名な逸話があります。「常山紀談」「名将言行録」などに記されているものです。
 これは三成が水口城主になり四万石を加増された時の話と言われています。(三成が、本当に水口城主となったことがあるか、ということについては諸説あります。)
 秀吉が三成を呼び、「今度、禄を加増したが、何人ほどの家来を抱えたか。」と尋ねたところ、三成は「一人だけです。」と答えたというのです。呆れた秀吉が、「一体、誰を家来にしたのか」と問うと、三成は「島左近です。」と応じました。秀吉は驚き、「島左近といえば、天下の名士だ。お主のように、小禄の者に仕える者ではない。一体、いくらの禄高で召し抱えたのか。」というと、「されば私の禄高四万石の半分の二万石で召し抱えました。」といい、これを聞いた秀吉は、笑いながら「君臣の禄高が同じというのは、聞いたことがない。しかし、そうでなければ左近ほどの人物が三成には仕えまい。」と興じたというのです。
 この逸話が果たして真実かどうかについては、もちろん諸説あります。
 一番の疑問点は、三成が果たして水口城主となったことがあるかについてで、これについては今のところ確かな一次史料から裏付けることは出来ません。
 島左近が三成に仕えた時期についても諸説あります。拙稿「三成苦心の家臣団構成」(学研・歴史群像シリーズ「決戦 関ヶ原」所収)にも少し書きましたが、一番もっともらしいのは、天正十八年(1590)に三成が美濃・近江で五万石加増された時に左近を召し抱えた、という考えのように思われます。
 いずれにせよ、三成が島左近を、周囲を驚かすような高禄で召し抱えたことは確かなことでしょう。

四、葦・葭の運上/淀川堤の補修など

秀吉が三成に禄を与えようとしたとき、三成が
「領地はいりません。その代わり、淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します。」
と答えたという逸話です。
 葦はご存知のとおり、屋根を葺いたり、簾や御座などに使われるものです。当時は河原に自生していたものを、使っていました。
 三成はこれに課税することで、秀吉の丹波攻めには、約束どおり一万石分の軍役をし、華麗な軍装で参加したと言います。
 これは「古今武家盛衰記」「名将言行録」等に出てくる話ですが、他の多くの逸話と同じく史実として裏づけることは出来ません。そもそも「秀吉の丹波攻め」とは一体いつのことを指してるのかが、特定できません。
 三成には、このような功利的な逸話が、いくつかあります。このあたりからも江戸期の三成観を察することができます。

 功利的な逸話をもう一つ紹介しておきましょう。「翁物語」に出てくるものです。大雨で淀川の水嵩が増し、土嚢を積んでも間に合わず、もう堤が決壊しそうになった際、三成が指示して大坂城の米倉を開き、土嚢の代わりに米俵を積み上げ、決壊を食い止めたというものです。雨が上がったのち、三成は近在の百姓に米俵を土嚢に積み替えさせ、報酬にその米俵を与えたため、百姓も喜び工事が一気に進んだといいます。
 同種の逸話では、井戸掘りが難航している時、三成が井戸底に銭を埋め込み、掘り当てたものに与えたというのもあります。(前橋舊蔵文庫)
 個人的には、こういう逸話は三成らしく無いように思います。三成の政策の特徴は、律儀に筋を通すことにあり、こういう奇策は得意で無いように感じます。ただ戦国から安土桃山のこの時期は、人々が功利性に走り、物欲旺盛だった頃ですから、この手の逸話は三成のもののみならず、一般に似たようなことがあった可能性はあります。

逸話 其の弐 その最期

三成は江戸期を通じ、評価が低く、小人物とされていましたが、その最期にあたっては、清烈な逸話を残しています。
徹頭徹尾、三成をおとしめた江戸期の俗書「石田軍記」でさえ例外ではなく、三成は最期は立派だったとしています。
作家の北条氏は、この理由を「三成の最期に与えた印象が、長く人の心に残ったためではないか、と言われてますが私も同感です。

一、三成と柿

ニ、徳川家康の言葉

三、本多正純とのやり取り

四、福島正則ら諸将とのやり取り


一、三成と柿

 三献茶のエピソードと並んで、三成の逸話としてよく上るのが、この話ではないでしょうか。
 三成が処刑直前に、警護の人間に喉が乾いたので水を所望したのに対し、「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ。」と言われたところ、「柿は痰の毒であるのでいらない。」と答えたというものです。
 警護の者は「すぐに首を切られるものが、毒断ちして何になる。」と笑ったが、三成は「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ。」と泰然としていたといいます。(ちなみに漢方では、柿は痰の毒ではなく、薬だそうです。)

 この逸話は、「茗話記」などに出てくるものです。三成の逸話には、このように逆境の中でも志を失わなかったというものが多くあります。
 以下にそのいくつかを紹介します。

ニ.徳川家康の言葉

 処刑直前の三成は、家康との間でもいくつか逸話を残しています。
 その一つ。処刑前の三成、行長、安国寺の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は有りがたく受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか。」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ。」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか。」と言って受け取らなかったというもの。
 もう一つ。家康がやはり処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで、少しも恥では無い。」といい、さらに三成が処刑されるまで潔い態度を崩さなかったと聞き、「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは人間の出来が違う。」と嘆じたというものです。これらは「常山紀談」に紹介されているものです。
 三成と家康は、徹頭徹尾、不仲であったと伝えられていますが、私はそれには疑問に思っています。例えば朝鮮の役の収拾にあたっては、両者が緊密な連携を見せた例があるからです。実は二人はお互いを認め合っていたのかもしれません。

三、本多正純とのやりとり

捕縛された三成が、家康配下の本多正純に預けられた際、両者が交わした会話が伝えられています。

正純 「秀頼様が年若く、ただ太平を求めなければならない時に、理由もなく軍を起こし、遂には縄目の恥辱をかけられたのは、どういう事です。」
三成 「今、世の様子を見るに、いま徳川殿を打ち亡ぼさなければ、豊臣家の為に良くないと思い、宇喜多秀家・毛利輝元ら反対するものを説得して軍を起こしたのだ。戦いに臨んで、二心あるものに裏切られ、勝つべき戦いに負けたことこそ悔しい。」
正純 「智将は人情を計り、時勢を知ると言います。諸将が同心していないのも知らず、軽軽しく軍を起こし、敗れて自害もしないのは、どういうことです。」
三成 「あなたは武略を露ほどにも知らない人だ。腹を切って人手にかからないようにするのは、葉武者のことだ。源頼朝公が土肥の杉山にて、朽木の洞に身を潜めた心は分かるまい。頼朝公が大庭に絡め取られていたら、あなたのような人間に嘲笑れていたことだろう。あなたに大将の道を語っても耳には入るまい。」

これも「常山紀談」などに記されたものです。敗れてもなお意志軒昂な三成の様子を伝えています。三成は敗れても自害しないことを、源頼朝が石橋山の合戦での敗戦から落ち延び、再起を果たした姿に重ねていたといいます。

四、福島正則ら諸将とのやりとり


これも有名な逸話です。司馬さんの小説「関ヶ原」では、この逸話が生き生きと描写されています。捕らえられた三成が大津本陣の門前に座らされ、その前を過ぎる諸将とのやり取りです。

福島正則 「無益の乱を起こして、その有様は何だ。」
三成 「おのれを生け捕りにして、このように縛ることができなかったのは天運によるものだ。」
(正則絶句して通り過ぎる)

黒田長政「このようになったのは、不幸なことです。」
(自分の羽織を脱いで、三成に着せ掛ける。)

小早川秀秋(細川忠興に止められるが、三成を覗き見ていたところ、三成に見つかり)
三成「 私があなたの二心を知らなかったのは愚かだ。だが約に違い義を棄て、人を欺いて裏切りしたるは武将の恥辱、末代まで語り継がれて笑うべし。」


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