「私と母」

 金子 望

私は、変わった子だった。

口を開かず、感情を顔に出さず、

私とコミュニケーションをとろうとする大人を戸惑わせた。

私には、一つ上の兄がいて、いつも、どこへ行くにも一緒だった。

友達どうしで遊びの相談をしたり、店でお菓子を買ったりするとき、

外部との交渉は兄が全部やったので、

私は黙って兄の背に隠れていれば、それで全部済んだ。

私と兄が預けられていた保育所の人が、私の母親に、

児童相談所で私を診てもらうようにと勧めた。

私の様子が普通ではないということだったのだろう。

母親は「はん、なぁんちゅうこつぁなか(何ていうことはない)」

と言って取り合わなかった。

母親はいつもひどい偏頭痛に悩まされており、

かんしゃく持ちで、気ぜわしかった。

やせていて小柄だったが、負けん気が強かった。

父親は凝り性で、何にでも手を出しては、

家中を様々な道具でいっぱいにした。

あるときは、ベレー帽をかぶった油絵の画家、

あるときはうんちくを垂れる庭師、

あるときは大工、研ぎ師。

書道に謡曲。

写真を始めたときは、押入れを暗室にして、

高価なカメラを買い込んだ。

やり始めるととことんやらないと気が済まず、

そして案外簡単にやめてしまうことも多かった。

また、読書家で、家にはかなりの量の本があり、

時間があれば奥の部屋に籠もり本に向かっていた。

給料のほとんどを自分の趣味と本代に使い、

家にはわずかなお金しかなかった。

母親はどこからか、編み物の機械を借りてきて、

セーターを編む内職を始めた。

ただでさえかんしゃく持ちなのに、

編み物の目を数えたりするのに神経をつかい、

機械をジャーッ、ジャーッと鳴らすときは、

いつもこめかみに青筋をたてていた。

編み物の機械の音は、

今母親に近づいてはいけないという警告信号でもあった。

あるとき、父はキリスト教を始めた。

日曜日は必ず奥の座敷で母親と聖書を読むようになった。

母親は父親が語るありがたい聖書の話を聞いてすぐに信者になり、

夕食の前には神様への感謝の言葉を言うというきまりを作った。

兄と妹と私の三人が順番に言うことになった。

兄と妹は従順にその儀式に従ったが、

私の番が回ってきた食事どきは、だれもが緊張した。

私が感謝の言葉を言うのを拒むからである。

まず、母親が「はよいわんの!っちいいよろうが。

(はやく言いなさいって言っているでしょ)」

と怒鳴り始める。

兄が「はよいえじゃん!(はやく言えって!)」と何度も言い、

妹は泣きそうになって、「にいちゃん、はよ食べよ」と懇願した。

私は母親から何度たたかれても口を開かず、

貝のように殻を閉じて、無表情に時間が過ぎるのを待った。

たいがい、兄があきらめて、私のかわりに神への感謝を述べた。

当時の私には神の存在が信じ難く、

神様にお礼を言うくらいなら、

一週間でも食事を我慢できたのである。

キリスト教でよかったこともある。

まだクリスマスプレゼントなど一般的でない田舎の土地柄だったが、

我が家には、毎年サンタクロースがきた。

サンタクロースは、煙突からプレゼントを投げ込むのだと

私たち兄弟は信じていた。

我が家の煙突は2つあって、

一つは風呂の焚き口、もう一つは、くみ取り式トイレから伸びていた。

どちらも細かったが、サンタクロースは魔法を使って

その細い煙突からプレゼントを入れることになっていた。

むろん、トイレにプレゼントが投げ込まれることはなかったが、

私たち兄弟は一二月二五日の朝がくると、

真っ先に、風呂の焚き口を見に行った。

そこには、焚き口の中で汚れないように、

新聞紙で何重にも包まれたプレゼントやケーキが置いてあるのだった。

「ほんなこつ煙突からきたっちゃろうか」

と兄弟でこそこそと話をしていると、

母親は「よーっとみてみらんの、

ケーキん箱がすすけちょろうが

(よく見てみなさい、ケーキの箱がすすけているでしょう)」

などと言った。母親は人をだますのもうまかった。

食事前のキリスト教の儀式はしばらく続いたが

いつのまにかなくなり、

日曜日の聖書の時間もなくなっていた。

あるとき、私が近所で妹と遊んでいると、

大型の野良犬がうなり声をあげて近づいてきた。

妹は泣き出して私の後ろに隠れた。

私は足がすくみ、

犬の口からむき出された鋭い歯を見て体が固まっていた。

かみつかれる!と思った瞬間、

「こらーあっちへいかんか!こりゃー」

と大きな声を出して母親が走りながら現れた。

右手に大きな石を持ち何度も投げるふりをして犬を威嚇した。

犬の前にその石をどすんと投げると、犬は逃げていった。

母親はその場に腰が抜けたように座り込んだかと思うと、

すぐに立ち上がり私の方に向き直った。

そして思いっきり私の顔を張り、

「あんたがてれーっとしちょるき、こげなこつになろうが!

(あんたがぼけーとしているからこんなことになるのだ)」

と言い残し、家に帰っていった。

母親は農業を営む家に長女で生まれ、

六人の妹と一人の弟がいた。

幼い頃から家の手伝いや妹弟の世話に明け暮れた。

見合いをして若くして父のもとへ嫁いできたが、

結婚後すぐに父の兄が戦死し、

その嫁は幼子二人を残して実家へ帰ったので、

私の母親は、戦死した義兄の子二人の面倒を見ながら、

自分の子三人を育てるという苦労をした。

無学であったが、頭の回転が速く、

私が宿題をしていると横から、

「そりはこげんすりゃよかろが!

(それはこうすればいいでしょうが)」と私を叱ったりした。

あるとき、私が地図を広げていると、横から、

「そけ、○○大学っちあろがね

(そこに○○大学ってあるでしょう)。

あんたそけいくとよかろばってんね

(あんたはそこに行くといいでしょうけどね)」と言った。

私は、ふーん、おれは大学に行かねばならないのか

などと思った。

近所に同い年の女の子がいた。

小学校の一時期、その女の子と学校へ一緒に通っていた。

あるとき、その女の子と道を歩いていると、

横をバイクが通った。

そのとき何か道に落としたような気がした。

女の子がそれを拾った。サングラスだった。

女の子はそれをどうしたものかと思案げに私を見た。

私は女の子の手からそれを取り、

バイクに向かって全力で走り出した。

バイクに追いつけるはずもなかったが、

女の子にかっこよく思われたかったのだろう。

しばらく走ったが、バイクは遠くに去ったので、

二人でサングラスを道沿いの精米所の人に預けた。

そこに居た女の人は、

「あー。あんバイクん人ならあたしが知っちょる人なき、

届けちょってやろ

(あのバイクの人なら私が知ってる人だから届けておいてやるよ)」

と言った。

その日は日曜で、稲刈りだった。

親戚総出で作業に追われる。

私はちょっとしたことが原因でふてくされていた。

そして、わざと刈り取りの作業をじゃまをするように寝っ転がって、

眠り込んだふりをした。

親戚の者は、「ほらほら起きんね」

と優しく声をかけてくれたが、

母親は

「ふん、ほたりちょっちくれんの(ほうっておいてくれ)」と構わなかった。

夕方、皆が引き上げていっても、

私は田んぼに寝っ転がっていた。

夜になった。

私は薄目を開けてだれかが呼びに来てくれるのを待ったが

だれも来なかった。

しかたなく目を開け、一人で帰ろうとしたとき、声がした。

従姉妹と妹だった。

私は隠れて様子を見守った。

「あれ?ここに寝ちょったよね?」といいながら、

もと来た道を戻っていった。

そのあとすぐ、大人が何人か田んぼに戻ってきた。

「おーい」「おーい」と呼びながら私を捜していた。

そうこうするうちに、だんだん捜索する大人の数が増えていった。

一時間ほど近くの墓地で隠れていたが、

さすがに心細くなり、こっそりと家まで帰り、

裏の戸からそっと入った。

家にはだれもいなかったが、すぐに兄が帰ってきた。

兄は泣いていた。そして私の顔を見て真っ青になった。

「どけいっちょったつけ(どこにいってたんだ)。

おまいがおらんごつなったき、おりがたたかれたつぞ

(お前がいなくなったので、おれがたたかれたんだ)」

といった。

兄が母親からひどくぶたれた様子が私にも伝わってきた。

逃げようと思った瞬間、

入り口に母親が手に箒をもって現れた。

そして、私を見るなり、鬼のような形相で私に襲いかかった。

「こんやつが!なんしちょったつけ、

こんやつが!こんやつが!

(このやろう、何をしていたんだ、このやろうが)」

と私の尻や背や頭を箒の柄で何度もたたいた。

丸くなってたたかれるままになっている私を

何十発たたいただろうか、

「こんやつが、こんやつが!」と言っていた母親が、

突然、顔を両手で覆い、奥の部屋に走っていった。

奥から、叫ぶように大きく泣いている母親の声を聞きながら、

何が起きたのかわけがわからず、私はそこに立ちつくしていた。

母親は、私が人さらいに遭った(誘拐された)と思いこみ、

半狂乱になって私を捜し回っていたのだと、あとで聞いた。

親戚の家では、稲刈りの慰労会が行われていた。

その場に連れて行かれ、

「はよ飯を食え」といって、がめ煮と握り飯を与えられた。

母親は寝込んでしまってその場におらず、

祖父が私の相手をしてくれた。

祖父は、私に十円玉を出し、

昼にサングラスの持ち主がわざわざお前にお礼を言いにきたぞ、

と言った。

その人が私にやってくれと

十円玉を置いていったということだった。

当時の十円は小学生にはありがたい金額だった。

 「おまや、今日ひとつよかこつして、

ひとつわりこつをしたつたい

(お前は今日ひとついいことをしてひとつ悪いことをしたのだ)」

と祖父は言った。

私は、空腹で温かい握り飯がうまかったのと、

母親の暴力から解放されてほっとしたのと、

十円もらったのがうれしかったのと、

私の頭の上に置かれた祖父の手が温かかったのと、

そして、何よりも、

初めて母親の泣く姿を目にして動揺したことで、

やたらと長かった今日一日の、

いろいろなことが胸に迫ってきて、

手に持つ握り飯の上に涙をぼたぼたと落とした。

そして声を上げて泣いた。

私はかすむ目で飯台の十円玉を見ながら、

手の中の握り飯をいつまでも食べ終わることができないでいた。

(校誌「筑紫中央」2005/3

 

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