私と祖父(私と家族シリーズ・その3)

金子 望

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の手元に古い一枚の写真がある。

その写真の中で、

私の祖父は、幼い私と私の兄を連れ、

子豚を散歩させている。

道の後ろが私の実家がある場所だが、

この写真が撮影されたときはまだ建っていない。

これは私が祖父と一緒に暮らしていた頃の写真である。

私の父が、祖父から田んぼをひと区画譲り受け分家したとき、

祖父とは別々に生活することになった。

別々と言っても、

祖父のいる本家までは歩いて五分程度の距離だったが。

この写真の祖父は柔らかく微笑んでいる。

私のお気に入りの写真の一枚である。

 

私の田舎には「おひゅぎん」という方言がある。

私が本家で祖父の手伝いをし終わって、

自分の家に帰ろうとするとき、

祖父は必ず

「ちょいとまたんの、おひゅぎんばやろ」といって、

なにがしかのお金を小学生だった私にくれた。

「おひゅぎん」(または「おひゅうぎん」)

の語源が何なのかはよくわからないが、

ご褒美、お駄賃という意味であろう。

 

本家には、

祖父と、私の従兄弟が二人いた。

従兄弟には、両親がいなかった。

従兄弟の父親は戦死し、母親は出て行ったからだ。

祖父がその二人の従兄弟の父親代わりになっていた。

本家には、

作業のための大きな建物があり、

豚や鶏が飼われていた。

祖父や祖母が元気なうちは、

かなりの田んぼを所有しており、

父も農業を手伝っていたが、

一番大きな田んぼ

(その場所を「はったん」と呼んでいた。

田んぼの面積が8反だったのだろう)

の上をバイパスが通る計画になり、

そこを売却してからは、

農業も縮小せざるを得なくなったのではないかと思う。

本家は、

いつも鶏糞と豚のにおいで充満して、強烈に臭かった。

白色レグホンという鶏がケージに入っていて毎日卵を産み、

豚が何頭もいて隣近所から集められた残飯をがつがつと食べていた。

私は祖父によく呼ばれて手伝いを命じられた。

手伝いはたいてい鶏の世話であった。

作業は卵を集めることから始まる。

ノートにどの鶏が卵を産んでいるか、

ケージ番号を見ながら○をつけていく。

このノートがまるで不可解で、

小屋の通称が書かれているのだが、

西の二階東隅とか、豚小屋南二列目とか、

小学生の私にはまるで意味不明だった。

まず、東西南北の方角をいつまでも覚えられなかった。

祖父から、

ほら西の方たい西の方、どけいきよるとか!そりゃ東たい!

などと怒鳴られながら、

何回卵集めをやっても、私はどっちが西でどっちが東か覚えられなかった。

卵は鶏糞にまみれたものもあり、

糞に触らぬようにつかんで集める。

だんだん、卵の籠が重くなり、

両方の手を替えながら2階への階段を何度も登り降りする。

小学生の私にとってそれは嫌でたまらぬ仕事だった。

餌やりがまた大変な作業だった。

私が餌をやろうとして近づくと、鶏は餌を早く食いたくて興奮状態に陥る。

アルミ製のコップでえさをケージの前にある樋に入れていくのだが、

油断すると鶏の嘴で手の甲をつつかられた。

その後が水やりで、えさの樋の上に、

水用の別の樋が長く伸びている。

屋根の雨樋のようなものである。

その中にホースで水を流し入れる。

一度、水を入れすぎて、樋から水をあふれさせ、

その下にあるえさの樋に水が流れ落ち、

えさを水浸しにしてしまったことがある。

しかしなぜか鶏は水に濡れたえさのほうがいいのか、

狂ったようにかっかっかっと食い、私をあわてさせた。

祖父にばれるまえにえさを全部食べてくれと願いながら見守っていた。

集めた卵を数えるのがまた一苦労だった。

1,2,3,4と数えながら別の籠にいれていくのだが、

必ずどこかで、あれ?いま何個だった?と分からなくなり、

また最初から数える羽目になった。

祖父に何個だったと報告する。祖父は、私が個数を報告してもしなくても、

卵を一個一個布で拭きながら、再度数えた。

「ひとうつひとつひとつひとつ…、

ふたあつふたつふたつ・・・」

と拭きあげる間中、

数を口のなかで繰り返しながら

最後の二〇〇個ぐらいまで時間をかけて数えていく。

数を間違えないための祖父の工夫だった。

数え終わると、私の数と必ず違う数になった。

「ふん、数があわんぞ」

数も数えきらないのかと私をじろりとにらむのが決まりだった。

一度だけ、集めた卵を取引している店まで運ぶのに同行したことがある。

自転車に卵を積んで行くのだが、

歩くぐらいの速さで自転車をこぐ危なっかしい祖父の横を、自転車でついていった。

町中に入った時、祖父がいきなり

「卵はいらんのー、たまごー」

と叫び始めた時は、恥ずかしさで身を小さくした。

こんなところで友達に会ったらどうしょうかと

下を向いて顔を赤くして自転車を急いでこいで先へ行き、

祖父が来るの待っていた。

 

私に対して祖父は特別な思い入れを抱いていたのではないかと

今にして思うできごとが、私の記憶のなかにある。

その一つは、小学校の卒業式である。

小学校の卒業式当日、

なぜか保護者席には祖父がいた。

私の母は具合を悪くすることが多く、

あまり人前に出なかった。

本家にいた私の従兄弟の面倒を見たり、

祖父の養豚業を手伝ったり、家では内職をしたりして、

神経をすり減らしていたのだと思う。

私には、そのころの母親はいつも神経質に私を叱っていたという記憶しかない。

そして学校参観の日の教室の後ろに母親の姿があることは少なかったように思う。

祖父は式の間中ずっと咳き込んでいた。

しんとした厳粛な式のなかで、

私は祖父のせきが聞こえるたび、

「なんで、じっちゃまがきたとやろか、こんでよかつに・・」

と苦々しく思い、咳が周りの者に迷惑になっているのではないかと気が気ではなかった。

式のあと一列にならんで講堂をでるとき、

祖父は私に

「おい、のぞむ!」

と声をかけてきた。

私は恥ずかしくて振り返りもせずそのまま歩いて出ていった。

卒業式が終わり教室から出ると、もう祖父はいなかった。

もう一つ、これは、私が中学生のとき。

テニス部だった私は、郡の大会で優勝したことがある。

祖父は、私の試合があるということを誰に聞いたのか、

タクシーに乗り一人で会場に来ていた。

私の友人が、

「おい金子。あすこにおるひとは、金子ん家のひとじゃろ?」

というので、みると祖父がいたのでびっくりした。

足が悪く杖をついていたのを大会の人が見かねて、

パイプ椅子を出してくれていた。

無言でじっと私の試合を見ていたが、

私が勝ち上がって、最後の決勝戦で優勝がきまると、

祖父が近づいてきて

「おい、のぞむ、これで何か食べろ」

といって、私にお金を握らせた。

あとで聞くと、引率の先生や私の友達やらだれかれに、

ジュースでも買ってくれとお金を渡したということだった。

いつものぞむがお世話になっています、

あいつは私の孫ですなどと言って回っていたらしい。

私は、中学時代から今まで三〇数年テニスを続けているが、

私の家族は一度も、私のプレーを見る機会がない。

というか、あまり興味を示さない。

今にして思えば私にとって祖父は、

身内の中で私の試合の姿を知っている唯一の特別な人なのである。

 

私が大学生となり、里帰りしたとき、母親が、

「本家に行ってじっちゃまにおうちょかんの(会っておきなさい)、

じっちゃまがいつまでおるか(生きているか)わからんきの」といった。

いくと、祖父は、

おお、あんたはもう酒が飲むるとじゃろ、

といい、酒を探し始めた。

酒が見あたらなかったのだろう、何と養命酒を持ってきた。

湯飲みにどぼどぼとつぎ、ほら、と前に差し出した。

養命酒は薬じゃろうもん?というと、

薬なきそげん酔わんくさい(薬だからそんなに酔わない)などと勧めた。

養命酒の瓶をみると、日本酒ほどのアルコール度数だった。

祖父は、

「まあまあ、飲まんの飲まんの、まだよかろうもん、ゆっくりしていかんの」

といいながら養命酒を私に飲ませた。

家に帰ってその話をすると、母親はあきれていた。

しかし、養命酒をつぐ祖父はとてもうれしそうだった。

祖父の顔を見ていると帰りづらく、

私はつがれるままにとうとう養命酒ひと瓶なくなるまで飲み続けたのだ。

 

祖父が亡くなる一年前の夏、

本家にあいさつに行くと、

祖父はもう私のことがわからなくなっていた。

今私は熊本にいるのだというと、

祖父は、

「ああ、そうですか、

そういえば、私の甥じゃっちょろか孫じゃっちょろか、

熊本にひとり身内がおりますばってん、

ありゃ、甥じゃっちょろかのー」

と首をひねった。

私は、「それは孫で私のことでしょう」と言いたかったが、

受け流していた。

はあ、そうですか…と相づちを打ちながら話を聞いていると

「ありゃちったできたなき(学業がよかったから)、

大学に行ったちいいよりましたが…。

あなたも熊本におりなさるですか…。」などと言った。

 

祖父が亡くなる直前、

母と、寝たきりになった祖父を見舞った。

祖父は全くわからなくなっていて

言葉をかけてもうつろな目をこちらに向けるだけだった。

帰ろうと思い、

「そんならじっちゃま、はよ元気にならんの」

といい、立ち上がると、

祖父は布団の中から手を出して私の方へ向けた。

母が、にぎっちゃらんの(握ってあげなさい)といい、

私は祖父の手を取った。

どうしてこんなに力があるのだと思うほど祖父は私の手を強く握り、

なかなか離さなかった。

そしてことばにならないうめきのような声を出した。

 私は、去りがたかったが

「そんなら、じっちゃま、またの(またくるよ)」

といい、家に帰った。

帰り途、

私は、いつも祖父は私の帰りぎわに大事なことを言ってきたように思い、

気になっていた。

いつも私を振り返らせておいて要件をいったり、

最後に思い出したようにおひゅぎんをくれたりしたその祖父が、

帰ろうとした私に何を言いたかったのだろうかと。

私が祖父を見たのはそのときが最後になってしまった。

祖父の葬儀のあと、

火葬場の焼却炉に入る祖父に、

母は「さいならーじっちゃま。さいならー」と大きな声で言った。

しんとした火葬場に似合わぬ大声で呼びかける母親の

さよならーの声が、ひどく寂しげで私は泣いた。

 

それから何年も過ぎ、

私は結婚して子供ができ、

祖父のことをすっかり忘れてしまっていたが、

あるとき、実家の押入から母が一枚の写真を見つけ出してきた。

「こげなとこにじっちゃまの写真があったばい。」

私と母はその写真を見ながら、祖父の想い出をしばらく語った。

母は、「じっちゃまがいつも言いよった。

『のぞむは、金が好いちょるごたる(お金が好きなようだ)』ち。」

と言って笑った。

 

祖父は、しっかり私をこき使い、

用事が終わった私を必ず数歩行かせた後呼び止めた。

いったん何も言わずに帰らせ、私が帰ろうとするその帰りしなに、

絶妙のタイミングで、おい、おひゅぎんはいらんとか、と声をかけた。

 振り返ったときの私のうれしそうな顔を見たくて、

いつもそうしたのだと今想像する。

写真の中の祖父の優しい顔にしばらく見入った。

私は

祖父が、おひゅぎんばやろ、というときの顔を思い出そうとした。

そういえば、

おひゅぎんばやろといって私を振り向かせ、

私のたぶんうれしそうにしている顔を見る祖父の顔もまた

とてもうれしそうだったということを、この写真を見て思い出した。

それが冒頭に紹介した写真である。

 

(校誌「筑紫中央」2007/3