私と父

金子望

 

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小さいときの記憶がある。

私は、父と、線路の上に立っていた。

私は父と手をつないでいたが、父は線路の前をじっと見て、

手をつないだ私を忘れてしまったかのように、ただ立っていた。

私は不安に苛まれて、父の手を強く握ったが、

父は握り返すことはなかった。

線路は目の前で鉄橋になっていた。

立っていたその場所から線路の下の川を見ると、ほとんど水はなく、

鉄橋から水面まで十m以上はありそうで、

お尻のあたりがぞくぞくっとした。

線路は、その川をまたいでずっと先まで一直線に伸びていた。

鉄橋は五十mほどの長さがあったと思う。

その線路は私の実家の近くを通る久大本線であったはずだ。

とすれば、筑後川の支流であろうその川は、

私の町を貫いて流れているのだが、その鉄橋の場所を思い出せない。

その季節は五月ごろだったろうと思う。

その鉄橋のシーンを思い出すたびに私は草のにおいを感じるからだ。

なぜ、鉄橋の前にいたのか、

そしてなぜ父と私の二人きりでそこにいたのか、

母や兄や妹はどうしてそこにいなかったのか、思い出さない。

父は、私を見下ろさずに前を向いたまま、鉄橋を渡るぞと言った。

「あ?ここを歩いて渡ると?」。

私はびっくりして、父を見上げて言った。

父は「おぉ」と言って、私の手を引いた。

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私は、ちょっとためらい、

「汽車がきたらどうすると?」

と言って、父の手を引き戻した。

「来んくさい(来るはずない)」

と、父は私を引いた。

「来ん」と言った父の言葉は、

「来てもよい」という響きがあり、

私は、尻込みしたが、父は鉄橋に向けて足を出した。

汽車が来たらこちらへもどるのか、

足を踏み外したらどうなるのか

などと思いながらも逆らうことはできず、

手を引かれたまま、鉄橋の枕木に足を踏み出した。

 

私の父は、大正十五年生まれで、今年で八十歳になる。

父は、昔から無口で

いつも自分のことだけ考えているように見えた。

ときどき何を考えているかわからなかいことがあった。

父の生家は建具屋だった。

父は後を継ぐため、旧制工業学校の家具科へ進学した。

もっと英語の勉強がしたいと、

親に無理を言って旧制夜間中学に行き直した。

その後終戦間際、清水高等商船学校に入学し、

ゆくゆくは海軍として戦争に向かう準備をしている時、

終戦を迎えた。

父は健脚で、

今も歩く姿は背筋が伸び足取りがしっかりしている。

小学生の頃、父と散歩をしているとき、

父は公園の高鉄棒に飛びつき、

そのまま私の前で、ひょいと蹴上がりをしてみせたことがある。

読書ばかりして運動おんちだと思っていた父の意外な一面に驚いた私に、

父は、清水(商船学校)で鍛われたからな、

とこともなげに言った。

いつだったか、私は父から海軍の敬礼の仕方を教えてもらった。

船は狭いから、敬礼は脇を締めてする。

陸軍はこうする、海軍はこうだ、という風に。

父には、兄が二人いた。

二人とも戦死している。

二人が軍服を着ている写真が、

額に入って父の仕事部屋にかけられている。

兄がまだいたなら、自分の人生も変わったであろうと、

父は私に言ったことがある。

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ずっと後に、私が教員になってのことだが、

父に、

今高校では体験学習というのがあり、

集団行動の訓練が行われるという話をしたことがある。

その写真をみながら、

戦時中みたいなことをやりよるな、

清水じゃもっと厳しかったがな、などといった。

リベラルな意見をよく口にした父だが、

戦争のことを聞いたことはない。

清水のことを自慢げに言う父を不思議に思った。

私は父からひどく叱られたりたたかれたりしたことはないが、

父は、ときどき、

説教調に私たち兄弟にいろいろと人生訓じみたことを言った。

そんなとき、

父は自分のことを「僕」といった。

「僕は・・・」という言葉で始まる父の話を聞くとき、

私は、なぜかすごく素直な気持ちになれた。

父が「僕は、そう思う・・・。」などと言うとき、

それは自分の子と対等に意見を交わそうとしていたのか、

頭の中で職場での討論の続きをしていたのかよくわからないが、

父が言う「僕」という響きが私は好きだった。

私が中学生の1年生のときだった。

私は、国語を担当していた女の先生によく叱られた。

授業中の態度や口の利き方が横柄だったからだと思う。

その先生が業を煮やして、

これをお父さんに渡しなさい、

そして返事を明日持ってきなさい!と私に手紙を持たせた。

父はそれを読み、すぐに返事を書いた。

国語の先生は、次の日父親からの返事読み、

再度手紙を書いた。

何度かその往復があった。

私は、どのようなやりとりがあっているのかわからなかったが、

国語の先生は、手紙を私の前で読みながら、

ふーんと言ったり、にやにやして私を見たりした。

しかし私への叱責が減り、

私の言い分を多少聞いてくれるようになったことを感じた。

その先生が、

あなたのお父さんは、あなたについてこのようなことを書いておられますと、

手紙の一文を紹介したことがあった。

「彼は彼なりにいろいろと考えるところがあるようで・・・・、

僕はそのことを承知しておりますが・・・・」

などだったと思う。

私は、内容でなく、

父が私のことを「彼」と呼び、

自分のことを「僕」といっていることを強く記憶にとどめている。

そして自分に心強い味方がいることを誇らしく感じた。

私は自分の口調が父親そっくりになっていることに最近気づいた。

 

私と父は枕木を踏み、

一歩一歩ぎこちなく鉄橋を渡っていった。

鉄橋は、レールの間から下が丸見えで、

こんなに高いところから下を見るのは、生まれて初めてだった。

落ちたらどうしょう、

いっそ川に飛び込んだらこの怖さから逃れられるか、

などの考えが頭をぐるぐる回り混乱した。

レールの間から見える川底の石の様子、

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石の間を水が流れていくさま、

草の生え方まで鮮明に記憶に残っている。

下から風が吹いていて、体が不安定で、

右手で父の手をしっかり握っていた。

私は左手の中に何かを持っていた。

それをここで捨てようかどうしようか迷っていた。

対岸へついたとき、

時間がどれだけ経ったのだろうと思うぐらいぐったりしていた。

恐怖が強すぎたのか達成感などなかった。

渡り終えたとき、

左手にチョコレートを持っていたんだと思い出した。

手を開いたら、

溶けて手のひらにべっとりと張り付いていた。

鉄橋のことを思い出すとき、

手のひらの、そのべとべとした感触は

今でもリアルによみがえる。

記憶はそこで途絶えている。

私はときどきその場面を思い出し、

そこからどこに向かったのか、

父は何を考えていたのか想像してみる。

また、父との思い出を探そうとすれば、

どうして必ずこの鉄橋でのできごとにたどりつくのか

その理由を考えてみる。

母の生家は、

私たち家族が住んでいた家から、

歩いて一時間ほどのところにあった。

盆と正月には家族で歩いて母の実家へ向かった。

鉄橋はその途中にあったような気がする。

父と二人でその道を歩いたのだろうか。

母は、よく私と兄を連れて自分の実家に帰っていた。

母は、実家では私と兄を母の妹たちに任せて、

自分はひたすら布団の中で寝ていたという。

父の家では祖父(父の父親)が養豚業をしており、

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母は朝早くから豚のえさの世話をして一日中働きづめだった。

母の帰省はその労働から逃れられる唯一の休息日であったのだ。

でもその時は、母はなぜか私を家に残し実家へ帰っていた。

父は、母のいる実家へ、私を連れて行っていたのかもしれない。

鉄橋で父は何を考えていたのだろう。

鉄橋から向こうには、母の実家が見えていたと思う。

生まれて初めての死ぬほど怖いという体験であったが、

この記憶は恐怖経験のトラウマとして残っているわけではない。

むしろ思い出すたび、柔らかい感触がある。

私にとってこれは

父と共有したちょっとした冒険だったのかなと思う。

 

今、私には子供が二人いる。

上が娘で下の子が息子である。

二人の子が小学生の頃、

家族でスキー旅行を計画し北海道へ行った。

そのスキー場は、

山の山頂で他の2つのスキー場とつながっていた。

山頂付近へはゴンドラでだれでも行くことができる。

私たちの宿に近いスキー場は上級者向けであったので、

となりのスキー場へ移動しようと皆で相談した。

そこで私は、

山頂からとなりのスキー場へ滑り降りればよいと提案したが、

家内は危ないと反対した。

宿のオーナーは、

その方法は天候次第ですねとアドバイスしていた。

家内と上の娘は連絡バスで下の道を移動する方法をとった。

私は下の息子を連れて、山頂へ向かった。

学生時代にスキーの経験があり、

息子を連れて山越えするくらいたいしたことないと

高をくくっていたのだ。

ゴンドラを下りるとひどい吹雪で、

数m先が見えないくらいだった。

そこから山頂へ向かうリフトは人がまばらで、

ましてや小学2年生ぐらいの小さな子連れは皆無で、

私は後悔し始めていた。

リフトを降りるとさらに吹雪は激しさを増した。

視界が悪い上に、

隣のスキー場への連絡通路は雪に埋まり始めていた。

急斜面を横切る通路は狭く、

谷へ迷い込むおそれがあった。

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が、ともかくも行くしかない。

息子は怖じ気づいていたが、先へ行けと促して進んだ。

十mも進まないうちに息子が道の脇に落ちて雪に埋まった。

もう連絡道を通る人影もなくなっている。

雪を掘り息子のスキー板をはずし上に引っ張り上げた。

雪を踏みつけて通路をつくりその後に息子を進ませた。

人影が現れ、

山向こうのスキー場のリフトがぼんやりと見えたときには胸をなで下ろした。

何と無謀なことをしたことかと反省した。

この旅行からずいぶん時が経ったときであるが、

このスキー場の山越えは父と渡った鉄橋と似ていると思い始めていた。

私は、吹雪の向こう側に何かを期待していたのだろうか。

息子を連れて行くことで、

ある賭をしたのかもしれない。

無事にここを越えたら何かが変わると。

あるいは変えられると。

いや、そんなことを考えて山越えしたわけではないと、

一人苦笑して自分で否定するが、

私の想像は止まらない。

確かに鉄橋での父と同じように、

私は息子を振り返ったりしなかった。

吹雪の先を見つめていただけである。

そして渡りきったとき、

不思議だが、

この子を抱きしめたいと心底から思った。

父もその鉄橋で何か賭をしたのだろうか。

 

この年末、

いつもの年と同じように実家へ帰った。

私は、例の鉄橋を探しにいこうと決めていた。

鉄道が久大本線で、川が私の知るその川であるならば、

地図上で交点は一つしかなく、そこに鉄橋があるはずだった。

川沿いにたどっていけば間違いなく着く。

行く前に父に鉄橋の話をした。

父は、

ほうそげなこつがあったかねと全く記憶にない様子だった。

母は、

「鉄橋?あそこは危ねなきとおらんじゃっちょろ(危ないから通ってないよ)」


と言った。

実家から歩いて十五分程度で私は鉄橋に着いた。

拍子抜けするくらい簡単にその鉄橋は見つかった。

田圃の真ん中にその鉄橋はあり、

記憶の通りの風景で記憶の通りの鉄橋だった。

四〇年前と全然変わっていなかった。

鉄橋は今見ても高かった。

まっすぐの線路の前と後ろを遠くまで見て、

列車が来ないことを確認し渡ってみた。

大人になった今でも渡るのは怖かった。

幼い私が震え上がったはずである。

枕木の上を一歩一歩進むごとに子供のころの恐怖がよみがえってきて、

対岸にたどりついたとき、思わずほっとため息をついた。

やはりそこから遠くに母の実家が見える。

私は、あっと思った。

その鉄橋を渡っても渡らなくても

母の実家への道のりは全く変わらないということに気づいたのだ。

川の両岸には土手が続いていてどちらも人が通れる昔からの道がある。

いやむしろ、鉄橋を渡らない方が近い。

 

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しばらくそこに立ち景色を眺めた。

付近には新しい道ができ、

昔からの通りがどれかわからなくなっている。

しかし自分が立っている場所で目をつぶれば、

四十年前の道が脳裏に浮かぶ。

目をつぶったまま、記憶の道の向きに足を踏み出せば、

そこが昔からの道だった。

一二月であるが暖かい日だった。

深呼吸し、空気を吸った。

左手に何かを握りつぶした感じがし、

すぐに手を開いたが何もなかった。

しかし手のひらには

チョコレートが溶けた感触が残っていた。

目をつぶってもう一度深く息を吸った。

五月の草のにおいがした。

 

(校誌「筑紫中央」2006/3