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                       「自由」

                                  反町 智

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 彼女は麦わら帽子を被り、素足で焼けた砂の上に一人立っていた。彼女の向こうには広
がる海と入道雲。
 彼女が右手で軽く帽子を押さえて振り返るショットで俺の夢はいつも終わる。
「────っ」
 いつも、いつも。俺にこんな過去はないのに。
                              ■
「どうしました。怪訝そうな顔をして」
「夢を見た」
 病院のリハビリセンターは気味が悪いくらい静かだ。
 担当医は慣れた口調で俺に話しかけてくる。
「蘇生が順調に進んでいるからです。心配いりません」
 そして『気分が悪くなったらこのボタンを押してくださいね』という決まり文句としゃ
くにさわる視線を俺に浴びせ、担当医は去って行った。
 吐き気を紛らわせるようと、無気質な壁を睨付ける。
「蘇生が順調なら、どうして俺の体はぼろぼろなんだ」
 人口が減り始めたのは二世紀くらい前。比較的健康な遺伝子を持つ新生児のクローンを
作ることに成功してから一世紀。狭いドームに暮らせる人数は限られているし費用もかか
るから、クローンは七つになったらドームの外に出されてしまうけれど。
 放射能が消滅して半世紀経ってはいるが、よく幼い子供をドームの外に出すなんて考え
ついたものだ。想像も絶するような世界だろうに、クローンの大半は生き延びているらし
い。だから俺も蘇生できたんだ。
 俺は半月前交通事故で死んだ。脳には異常がなかったので、俺のクローンに脳だけ移植
した。
 変なんだ。問題はないのに、拒絶反応もないのに。俺はクローンの体に拒絶されている
ような気がする。
 不意にノックの音がした。勝手にドアが開く。
「翔。起きてる?」
「…ゆかり?」
 入ってきたのは婚姻省で選ばれた俺の配偶者。事故がなければ俺達は今頃夫婦になって
いるはず。
「俺の面会謝絶はとれたんだな」
「ええ。…よかった。やっぱり翔だわ」
 何とか起きようとする俺を手で制して、ゆかりは俺に微笑んだ。久しぶりに見るのにちっ
とも懐かしくない。「よく俺のクローン見つけたな。大変だっただろう」
「一週間もドームの外にいたのよ。もうごめんだわ」
 ゆかりは俺の頬をそっと撫でてくれる。
「皆がクローンに翔を移植するのに賛成してくれたわ」
 気力も希望も何もなくて、あの時やっと死ねると思ったのに。俺と同じ遺伝子を持つ男
を犠牲にして、自分の意志とは関係なく俺は蘇生してしまった。
「翔は大事な旦那様なんだから。…死なせやしないわ」
                              ■
「どうしても行くの? あんな所に?」
「大丈夫。心配ないよ」
 ずっと気になっていたんだ。俺のクローンがどう生きていたのか。あの夢はドームの外
のような気がして。
 ゆかりに笑って返事する。ゆかりは泣きそうだった。
「ではよろしいな。三枚の扉の向こうは外じゃ」
「わかりました」
 防御服を着てエアカーに乗り込み、外へ出る道を突っ走る。順に開く扉を全部抜けると、
世界は急に広がった。
 知らない生き物。不思議な風の匂い。本物の太陽。
「────ここがドームの外か」
 初めてなのに、どうしてこんなに懐かしいんだろう。
 俺は高度を上げて周りを見渡した。高い木が群生している向こうに、水平線が見えた。
「よし。あっちだ」
 エアカーを全速力で走らせるのに、なかなか海は近くならない。太陽は知らぬ間に高く
なっているのに、潮の匂いも届いてこない。
 やっと海辺にたどり着く。エアカーに乗ったまま浜をゆっくり走って行くと、波の音と
カモメの鳴き声が俺に染み込んでいくような気がした。
 エアカーを止めて砂の上に降り立つ。あの夢と全てが同じに見える。俺は幻を見ている
ような気がした。
 彼女は麦わら帽子を被り、白い服を風にはためかせ、素足で焼けた砂の上に一人立って
いた。彼女の向こうに青い海と白いカモメの群れと大きな入道雲が見える。
 彼女は右手で軽く帽子を押さえて振り返る。俺と目が合うと、口に手をあててしゃがみ
込んでしまった。
「君は俺を知っているのか?!」
 涙を目に溜めて、彼女はじっと俺を見ている。思わず走り寄って彼女の肩を揺さぶった。
「翔…私を忘れちゃったの? それとも別人なの?」
 彼女にどう言えばいいだろう。彼女の翔は脳だけもういないなんて。俺が殺してしまっ
た。もう一人の翔は生きているべきだったんだ。
「翔。どうしたの? 声を聞かせてよ」
 知らずに涙が溢れていた。彼女を抱き締めていた。
「…ずっと君に逢いたかった」
                              ■
 彼女と並んで砂の上に座り、海を眺める。俺は事故にあってからの事を、彼女は彼女の
翔の事を話し出した。
 本体が死んだらクローンの自分は強制的にドームに連れていかれるに違いないと、予感
はしていたようだ。
「あの女が来た時、二度と帰ってこれないだろうって。私はここの人間だからドームの事
はわからないけど…たとえクローン人間でも、翔は一人の人間だったのよ」
「…そうだね」
 ゆかりが俺を求めていたのは、遺伝子の組み合わせがいいからっていう、たったそれだ
け。それだけの為に俺は蘇生し、俺のクローンは死んだ。
「あの時諦めたつもりでいたんだけど、やっぱりいつも海見ながら待っててね。振り向い
たら…いるじゃない」
「…ごめん」
「違う、うれしかった。翔でもあなたでもよかったの。だからあなたの罪悪感はもう帳消
しされているわ」
 彼女は潤んだ目で俺の顔をじっと覗いている。
「私はやっと呪縛から開放された。これであなたの謎も解けたし、心置き無く帰れるね」
 帰ってどうなる? また死にたい日々が続くのか?
「君の翔は海が好きだったろう?」
 波は鼓動と同じ音。人口子宮に流れるのは海の音。
「海がたまらなく懐かしいんだ。帰りたくないくらい」
 西日を浴びた彼女は呆けたような目を俺に向けた。
 不意に波音をかき消す、複数のエアカーのエンジン音がする。振り返ると、ゆかりとお
供が向かっていた。
 「翔っ! 何してるの、帰りましょう」
 ゆかりが覚束無い足で俺の側に駆けてくる。ゆっくり立ち上がった俺の肩を揺さぶって、
ゆかりは叫んでる。
「私達の人生、たくさん狂ってるわ。これ以上おかしくしないで。ねえ、静かにしあわせ
に暮らしましょう」
「いいかい。俺が死んだ時に全てが崩壊してるんだよ」
「あなたは生きているわ」
 泣きそうなゆかりの頭を、ただ笑って撫でてやる。
「望みをかなえるのは誰にだってしていい事だよ。でもゆかりはタブーを二つも犯している」
 ゆかりのお供が俺を囲むと、彼女は青い顔をした。
「どうして俺を蘇生させたんだ。選択できたなら、俺は死を選んだんだ。…あとドームの
外の俺の命を奪った。彼は生きようとしていたんだぞ」
 俺は胸の奥から言いたい事を吐き出した。
「ゆかりは俺達の自由を無残に奪った。もういいだろ?俺達の好きにさせてくれ」
「翔…俺達って、どういう事?!」
「自由にさせてくれ。奪われた自由を取り戻したい」
 小さく笑ってゆかりに背を向けた。何か言っていたらしいが、振り返らず、波打ち際を
歩くことにした。
                              ■
 死にたかった。生きたかった。奪われた自由は正反対だけど、充分に取り戻せる。簡単
だ、死にたかった俺が死に、生きたかった俺が生きる。それだけなんだ。
 俺と俺はうまくいっている。体との調和が取れているのはきっと気の所為じゃないはずだ。
 彼女が…まどかがリハビリを手伝ってくれる。
 今日も麦わら帽子を被って、海を見ながら、まどかが俺を待っている。声をかけなくて
もまどかは振り返る。
「翔」
 俺達は今、とても自由だ。
 
                                                 <FINALE>


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