鷹留城

鷹留城は堂々たる城郭で、東南には根小屋をもち、菩提寺の長年寺さえあって、かなりの年代、長野氏がここに

居城したことが明らかである。長年寺記に「長野業尚(尚業)は明応年間下室田に鷹留城を築いて浜川から移り、

その子憲業は箕輪城を築いた。」とあるが、故福島武雄氏は箕輪城御前曲輪の井戸から出た墓石等を綿密に研

究して、長野氏は明応以前から箕輪に居たことを指摘している。長野氏は、長野郷に居たので長野を姓としたと

考えるのが自然だが、長年寺記て゛は吾妻郡長野原から移って来た事になっている。箕輪、鷹留両城が吾妻の

城に多い一城別郭の類型であること、鷹留落城後、長野業道が長野原に落ちて行ったこと、上杉文書の関東

文に、羽田彦太郎、大戸中務少輔、内山、羽尾修理亮の吾妻諸士が長野衆中に含まれていることを思えば

、長野氏と吾妻との間に浅からぬ因縁のあることを感ずる。箕輪城が築かれて、箕輪、鷹留両城は別城一郭の編

成となった。そこで武田信玄は箕輪城攻略に先立ち、高浜の砦を突破して両城間を分断したのである。然る後、

小幡信貞の率いる一隊は鷹留城攻略に向かった。長野業勝、業固(両人共業道の弟)の反撃はこれを烏川の南

に撃退したが、鷹留方も業勝を失った。翌日は先ず業固が出撃して山県昌景の備えに突進し、業道もつづいて

山県勢に迫った。武田方では内藤昌豊、馬場信房の両隊が繰り出して城兵を包囲し、小幡勢も加わって攻めた

てた。業道、業固は、はせつけた利根木隊の救援で漸く囲みを脱出し、残兵をまとめて城に入ろうとすると、城は

既に火焔につつまれていた。この火は内応者蟹谷直光の放ったものだという。業道等はやむを得ず吾妻に走り、

城はあえなく陥ってしまった。        山崎一著 「群馬県古城.塁址の研究」より