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場所・・・群馬郡箕郷町大字西明屋及び東明屋 箕輪城跡の広さは東西800m、南北1100mに及び、総面積は十七万八千八百余平方メ−トル、本邦の山城として大規模のもののうちに数えられる。伝説によると、在五中將在原業平の子孫が上野国にすんで長野氏といったということである。 長野伊象守信業が大永の初年に箕輪城を築きはじめ、同六年五月(1528)、室田の鷹留城から移り住んだ。信業は鎌倉の上杉氏に仕えその子業政も亦管領上杉憲政のすぐれた武将であって、西群馬地方の重鎮であったが、孫業盛の時になって武田信玄に攻められて遂に滅亡した。 又、一説によれば往昔箕輪太郎師政という豪族が箕輪城の地法峰寺地区に館を構えて居住し、一旦事ある場合には後に長野信業が築城した同じ地域を防戦の用地とする心算であったということである。 箕輪太郎師政は在原業平の六男であり、五男業重の弟であることも、長野氏の詳細な系譜中にみえている。ただ、長野氏のその系譜の調査批判がなされなければこの説は認めがたいであろう。
訪問記 平成13年4月現在、三の丸の発掘調査が行なわれている。平成13年に第一回目の現地説明会がおこなわれた。第二回目の現地説明会は未定であるが、5月以降になるだろう。二の丸の大堀切は誠にすばらしく、本丸は広く、良く整備されている。御膳曲輪には、井戸があり、その北側の堀切もまたすばらしい。雪の箕輪城も又すばらしかった。攻城は、どこでもそうであるが、夏場は蚊がものすごく多いので避けたほうがよい。
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