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場所・・・吾妻郡吾妻町字平沢

 岩櫃城の城域は、居館(本丸)を中心とした所謂岩櫃城だけでなく、はるかに西北に広がり、更に東北の柳沢城も不可分の関係をもつことが明らかである。真田太平記で有名なこの城は、永禄七年、海野兄弟の内応によりさしもの堅塁もついに落城、武田信玄は真田幸隆を吾妻の守護に任じ、三枝松、鎌原、湯本の三将を岩櫃においた。 武田勝頼は真田家を継いだ昌幸を上州守護に任じた。天正八年、昌幸は沼田城を略取し岩櫃城に海野幸光、沼田城に海野輝幸兄弟を入れ、それぞれ城代としたが、海野兄弟叛逆の情報あり、昌幸の弟信ただをやって二人をちゅう殺した。のち関ケ原の役に西軍についた昌幸をおさえるために、白井城に牧野康成らが入って固めたが、当時岩櫃城には矢沢薩摩守、池田佐渡守らが立てこもり昌幸と断った。 同役後、城は真田信幸の手に帰したが、信幸は家康をはばかって、岩櫃城を破壊してしまった。時に元和二年、または慶長十八年という。

 

中城から虎口を望む

中城の東側

 

本丸と二の丸との堀切

 

中城から二の丸方面へ

 

 

本丸

 

 

二の丸下の空堀

 

本丸北側枡形虎口

 

本丸北東の岩山

 

案内板

 

本丸

 

草の者(真田の忍者)の修行場

 

本丸

 

訪問記

 全体としてよく残っていて、真田昌幸、信幸、幸村が立った同じ場所に今、自分がいるということを、実感しようと思った。この城はハイキングコースにもなっていて 、若者のグループや、年寄りのグループと出会い、若い頃を思い出し、思わず挨拶をかわした。 「天狗の丸」は「真田太平記」にでてくる「草の者」の修行場であったという。