小田原城

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「所在地」 神奈川県小田原市城内

「交通」 JR小田原駅下車徒歩十分

「城の種類」 平山城

「築城年」 応永24年(1417)

「築城者」 大森頼春

「最後の城主」 大久保忠良

「遺構」 石垣、土塁、堀など

{別名」 小早川館  

 

 治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族である。土肥次郎実平の嫡男遠平が、このとき、父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城した。それが小田原城の始まりである。応永23年(1426)、上杉禅秀の乱が鎌倉で起きたとき、大森頼春が鎌倉公方足利持氏を助け、小田原・箱根で 禅秀の軍を破り、乱を平定する功績をたてた。これにより、禅秀に味方した 土肥党・小早川党は小田原を追われ、秀吉は大森氏の居城となった。大森氏は五代、80年続いている。全盛期は氏頼の代で、南関東を掌握し、文化的にも繁栄した。しかし、明応4年(1495)氏頼は突然、北条早雲の奇襲により小田原城を追われた。北条氏の直轄は早雲以来、氏綱、氏康、氏政、氏直の五代約100年続いた。この時代の北条氏は、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれる。北条氏は小田原城を中心に地域を拡大、最盛時には高さ27メ-トルの三層大天守と小天守の複合天守を有し、外郭は城下町を含み東西3キロ、南北2.2キロに及んだ。三代氏康は永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、同12年には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件である。天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原を攻める。だが、小田原城はいっこうに落ちなかった。秀吉は小田原城西方の笠懸山(石垣山。石垣山一夜城。太閤一夜城。)に城を築き、大坂から淀君を呼びよせる。諸将にも妻子の帯同を許し、芸人らを呼んで酒宴を開いた。一方、食料が豊富だつた小田原城内でも宴が催されたという。この間、小競り合いはあつたが、大きな衝突はおこらなかった。軍兵21万余の大軍に包囲されながらも、小田原城内は余裕をみせていた。その様子は「北条五代記」に詳しく記述されている。秀吉軍との攻防を前に、城内では戦略論争が続けられていた。出撃して秀吉を撃つか、籠城して迎え撃つか、選択に迷っていたのである。存亡がかかつていた大決断をしなければならないのだから、簡単には決まらない。結論が出ないまま,軍議は連日開かれたという。膠着した会議の有様は、後に「小田原評定」という言葉をうんでいる。しかし、同年7月、当代城主氏直は籠城100日もむなしく、ついに秀吉に投降した。数倍の大軍と秀吉の近代的な戦法には抗しえなかったのである。ここに五代、約100年の間、繁栄を誇った小田原北条氏は滅亡する。(隠居の四代氏政は切腹させられ、五代氏直は高野山に流された。氏直の側室は家康の娘である)。小田原征伐後、城は徳川家康の城となり、大久保氏が入封する。慶長19年(1614)城代が変わると、小田原城は家康の命によって破却され、三の丸以内に規模が縮小された。以後、阿部氏、稲葉氏らが入城し、貞享3年(1686)には忠隣の子孫である大久保忠朝が入城し、以後、大久保氏の版図(はんと)となった。城は何度か大地震に遭い、天守倒壊などの被害を受けた。天守は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)に解体されるまで往時の姿のまま存続していた。現在は、昭和35年に復興された38.7メ-トルの天守が本丸跡にそびえている。常磐木門や、銅門などの城門も再建され、小田原の観光名所として、訪れる人々が絶えない。


 

 

銅(あかがね)門

二の丸に入る所にこの門はある。この門には銅が3トンも使われているという。未だ緑青はふいてはいない。立派な門である。


常磐木門(ときわぎもん)

 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。古城図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。元禄16年(1706)に、多聞櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。現在の常磐木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。 常磐木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松がうえられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常磐木門と名付けられたといわれている。


本丸東堀跡

江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいた。古い縄張図によると、堀は二の丸堀とつながつている。発掘調査によって、この本丸東堀の位置が確認され、最も幅があるところでは20メ-トル以上もあることがわかつた。この堀を渡るために架けられていたのが常磐木橋で、水鳥の池は堀の名残といえる。

 


解体される前の銅門

 銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、 江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていたが、明治5年に解体されてしまった。現在の 銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたものである。 銅門の形式は、石垣による枡形(ますがた)、内仕切門、櫓門、を組み合わせた枡形門とよばれる形式で、本来の工法で復元されている。                                          

                                      

                 


                             

                                         

銅門の壁の見本

銅門を復元するときに、ここにこの様に試作品をつくり、造られたという。壁厚は30センチ以上あるという。芯は昔の壁と同じ様に「こまいかき」がしてある。

 

 


 

小田原城天守閣

天守閣は城の象徴として本丸に構えられたものである。寛永11年(1634)には、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録がのこっている。元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失してしまうが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。現在の天守閣は、昭和36年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリ-トで外観復元したものである。内部は、古文書、絵図、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高80メ-トルの最上階からは相模湾が一望でき、良くはれた日には房総半島まで見ることが出来る。                   

 


 

 

二の丸外堀

見事な石垣である。


訪問記

 

初めての小田原城訪城である。旅行の最終日に訪れたので時間がなく、ゆっくりみられなかった。再建された銅門は見事である。ボランティアの女性に説明を受けたが、時間が無く、落ち着いて聞けなかった失礼をわびたい。 平成14年2月24日