松本城

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「所在地」  長野県松本市丸ノ内

「交通」    JR中央本線松本駅下車徒歩十五分

「城の種類」 平城

「築城年」  文禄3年(1594)

「築城者」  石川数正

「最後の城主」 戸田光則

「遺構」    天主、乾小天主、櫓、石垣、堀など

「別の呼名」 深志城 烏(う)城

「石川数正の謎」

 現存する国宝四天主の一つである松本城は、戦国期の武将、石川数正によって築かれた。数正は,徳川家康

の重臣中の重臣で,家康とは兄弟以上の仲といわれるほどの親密な主従関係にあった。三方原、長篠、小牧・

長久手など、節目となった戦いでは必ず活躍し、家康の信頼は絶大なものがあった。故郷である岡崎の城代を

任されていたことでも、それがわかる。ところが、家康の使者として、たびたび羽柴(豊臣)秀吉に会っていた数

正は、天正13年(1585)、突如,家康からはなれ、秀吉のもとに走った。,徳川方からみれば裏切りである。だが、

その明確な理由はどの文献にも残されていない。何度も会ううちに秀吉に心酔したという見方を筆頭に、秀吉の

攪乱作戦、家臣団内での孤立など、様々な憶測が流布した。数正は裏切り者の烙印を押された人物だが、本

当に裏切り者だったか疑問を呈する人も多く、真相は謎のままである。なかには、家康の間者としてわが身を犠

牲にし、秀吉に近づいたという説もある。これが本当なら、裏切りではないわけだが、数正自身は何も語らなか

ったという。武骨な三河武士の性格ゆえ、言い訳などしなかったのか、そのほかの理由があったのか、事の真

相は、今も不明である。

 

「深志城から松本城へ」

 秀吉に高禄で迎えられた数正は、天正18年(1590)、八万石で松本に入る。数正の入封以前から、松本には

小笠原氏の居城があった。城の起源は永正元年(1504)にまで遡る。室町以降、信濃を支配した小笠原氏が、

一族の武将島立貞永に砦を築かせたのが始まりだという。城は地名を付して深志城と呼ばれた。天文年間(

1532-55)に入り、甲斐の武田信玄が信濃に侵攻。天文19年(1550)、深志城を占領する。信玄は深志城を信濃

支配のための平站(へいたん)基地として活用した。天正元年(1573)、大黒柱の信玄を失った武田氏は、天正

10年(1582)、織田信長の軍勢に敗北し、深志城を奪われる。城を手にした信長も、同年、本能寺で非業の死を

遂げた。有力者死亡後の混乱に乗じ、再び小笠原氏が信濃を掌握し、徳川家康の支援をうけた貞慶(さだよし)

が深志城に入った。この時名を松本城に改め、堀や土塁などを造り、城を強化している。しかし、小笠原氏の

在位は長く続かなかった。天正18年(1590)、小田原攻略を完了し、天下統一を果たした秀吉は、家康を関東に

移し、これに帯同させて、小笠原氏を下総に移封。新たに家臣となった石川数正に、信濃松本を与えたのであ

る。入封後、数正は本格的な平城建設に着手。嫡男康長と二代にわたり、天守、御殿、櫓、門など新城の骨格

となる建造物を築造した。天守は五重六階で、渡櫓でつないだ三重四階の乾小天守もこの時に造られた。竣

工は、文禄3年(1594)頃とみられている。松本城の大半を建造した石川氏も、慶長18年(1613)、大久保長安事

件の余波を受け、改易処分となる。幕府の勘定奉行を努めた長安は、財政手腕に優れ、幕閣の中心的人物だ

った。だがその死後、生前の不正を理由に主君家康から糾弾され、遺族らは死罪となる。長安の長男には石川

数正の孫娘が嫁いでおり、二代康長にも塁が及ぶのは必死の情勢だった。加えて大規模な松本築城も幕府の

心証を損ね、その結果、石川氏は御家断絶。康長は九州に流され、失意のまま死亡した。その後、小笠原、戸

田、松平、堀田、水野と藩主は替わり、八ヶ月の幕領期間を経て再び戸田氏が入封。九代続いて幕末を迎えた。

   


「複合連結式天主の完成」

 松平長政統治下の寛永11年 (1634)、辰巳付櫓月見櫓が新たに築かれ、複合連結式の天守が完成した。

天守の外壁は各層ともに上部が白漆喰の大壁塗りで、下部は黒塗りの板張りとなっている。そのため、城全体

が黒く見え、烏城ともいわれる。天守の最上階には廻縁がなく、窓も少ない。窓が少ないのは、居住性よりも守

りを重視した結果といえるだろう。戦乱がまだ完全に収まっていなかった、当時の時代背景が繁栄されている。

総堀内側の面積は約十二万坪(約39万6千平方メ-トル)。本丸を中心に、内堀、外堀、総堀と三重の水堀を巡ら

し、本丸、二の丸、三の丸とも、ほぼ方形の区画がなされている。石垣は自然石を積み上げる野面積みで組ま

れた。

 


「傾いた城」

 松本城は「傾いた城」としても知られていた。人々は悪政と戦い斬殺された、ある農民の祟りだと信じていた。

水野忠直が城主だった貞享3年(1686)、新たな年貢の増加に反対する農民たちが城を取り囲み、撤回を迫っ

た。事態収拾を図る藩の役人は、表面上、要求を飲み、群衆を解散させた。しかし発表は偽りで、藩はすぐに首

謀者たとを捕まえ処刑した。首謀者の一人、中萱村の加助はいまわの際に、「官吏どもたばかったか」と叫び

死んでいった。絶命の瞬間、天守は南西に傾いたという。後日、この騒乱は加助騒動と呼ばれた。それから約

40年後の享保10年(1725)、時の藩主水野忠恒(ただつな)が、江戸城で毛利師就(もろなり)を斬りつける刃傷

件をお起こし、改易されてしまう。加助の怨念が、再び人々の噂になった。

 


「怨念の正体」

 その後、寛政、天保、明治、昭和と数度にわたり、修築がなされたが、城の傾きは一向に解消しなかった。怨

念の正体は、戦後に入り、ようやく科学的に解明されることになる。 松本城は、昭和25年から30年にかけて大

規模な解体修理が行われ、傾斜の原因も調査の対象となった。その結果、建物や石垣には問題がなく、基礎

部分に欠陥があることが判明した。土台下の杭(くい)に使われていた栂材(つがざい)が腐食していたのであ

る。 基礎部分の杭をコンクリ-トタイルに改めた松本城は、以後、まっすぐに立ち直った。

 


「城存続に尽力した人たち」

 維新後、多くの城と同様に、松本城は廃城の危機に瀕した。明治5年(1872)、城の解体を惜しんだ旧藩士

川量造らの尽力で、天守は破却を免れるが、やがて、倒壊寸前まで荒廃が進む。明治36年(1903)には、有志

たちが結成した天守閣保存会による大改修工事が始まった。工期は10年間に及び、大正2年(1913)完了する。

昭和11年4月、先人たちの努力が実を結び、天守ほか四棟が国宝に指定された。現在、松本城は北アルプスの

山並みを背景に、往時と変わらぬ豪壮華麗なたたずまいをみせてくれている。平成に入ってからも、着々と整備

が行われ、黒門枡形二の門(高麗門)太鼓門枡形などが復元されている。松本城に接する日本民族資料

館(松本市立博物館)に歴代城主たちの遺品や民族資料など、約千五百点の文化財が常設展示されている。

保存の恩人

「左側」 市川量造 化元年〜明治41年(18441908)

       明治初年松本城建造物の取り壊しが進む中で、同5年(1872)には天守が競売に付され、       

235両余で落札された。北深志横田町の戸長であった市川量造は、地元松本は言うに及ばず東京や京阪にま

で足を運んで資金を募り、天守を買い戻した。さらに、明治6年から同9年まで五回にわたって天守櫓で博覧会を

開催し、その入場料収益も買い戻し資金の一部に宛てた。こうして天守は破壊を免れた。

 

「右側」 小林有也 安政2 年〜大正3年(18551914)

       松本中学校長小林有也は、明治末年に至って荒廃が一段と進む松本城天守を憂え、その復旧保存に努めた。明治34年(1901)、時の松本町長小里頼永らとともに「松本天守保存会」を発足させ、資金調達に奔走するなど、明治修理(明治36大正2年)の中心になって活躍し、天守を破壊の危機から救った。


 

 

清正公駒つなぎの桜

熊本城主加藤清正は、江戸からの帰り、松本城に立ち寄った。城主石川玄蕃頭は

遠来の客を手厚くもてなした後、駿馬二頭を引き出し「土産にどちらでもお気に召し

た方を一頭差し上げましょう」といった。清正は志のほどを感謝して、「貴殿の目利き

で取り立てた駒を我らの目利きで選んでは誠に申し訳ない。二頭共申し受けるのが

礼儀と心得る」といって二頭を頂戴して帰ったという。これを伝え聞いた人々はさすが

清正公と感じいったという。この時駒を繋いだのがこの桜の木だとつたえられている。

「案内板」より


桔木(はねぎ)構造

 松本城天守閣はその南面と西面が水堀に臨み、大天守は地上29.4mの高層建築で あるから、その組あげに

は種々の工夫が凝らしてある。天守台石垣上面の各辺を弧 状に外へ反らして糸巻き型平面にしたのは、石垣

の安定を図る構造上の工夫である。 また、その上に載る天守櫓の土台も、石垣天端に合わせて湾曲させてあ

る。これは、 雨が直接石垣上面にかからぬための工夫である。同じことを熊本城では石垣より外に 出る土台と

し、土台が石垣より小さい丸岡城では建物と石垣の間に小さい庇を掛けて 雨をふせいでいる。丈の高い天守櫓

の木造部を一体化する工夫として採用したのは、 二つの階をつなぐ通し柱である。また、重い本瓦葺きの屋根

を支える工夫は、6階の 小屋組に見える4本の大きな井桁梁と、太い20本の桔木(はねぎ)構造である。


戸田家伝来葵紋具足

城主は、戸田康長、康直で、元和3年高崎より入封、寛永10年明石へ転封。

東五千石諏訪領、西五千石高遠領となる。

 


太鼓門

 城の入り口を固く守る為には様々な工夫がなされていた。その典型的なものが枡形 門で、石垣、土塁を四角

に囲って外と内に門を二重に構えたものである。松本城には、 大手門、太鼓門、黒門の三つの枡形門があった

。太鼓門は、天守築造後の文禄4年 (1595)頃に石川康長によって築造され、それから270余年後の明治4年

11月旧物 破壊の風潮の中で取り壊されたままになっていた。その後第二次世界大戦後になっ て文化財保護の

思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門復興等を経て、平成 11年3月、128年ぶりに太鼓門枡形が復元され

た。この門の名称の由来となつ 太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、太鼓や鐘が置かれてさまざまな合図が発信

され、 また櫓門の脇には、築造者の官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃(げんば)石」 を控え威風堂々とし

た枡形門を形造っていた。一般に城の重要な門には、威厳 をそえるため巨石を据えることが多かった。この玄

蕃石も同様な意味を持つもである。石川康長のころには天守を中心として本丸二の丸(内曲輪)を「御本城

として整備拡充し、三の丸(外曲輪)には武士を集住させるための武家屋敷は 建設途上て゛あり、五カ所の城戸

(桝門)はいずれも櫓門に変えられたが、大手門 が枡形門に変えられたのは、康長の改易後に入封した小笠秀

政の治世下 と考えられる。                                              

                                      

                                                                       


二の丸跡から天守閣を望む

 

 


月見櫓

北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗り

の回廊や船底形の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸しだし、天守、

渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分かる。この月見櫓

は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年

中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。現存する城郭建築の中で 月

見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だ

 けである。                                                  

 


 

本丸北側の土塁

 

 


訪問記

 

天守閣といい、濠といい、又土塁といいすばらしいの一語に尽きる。ちょうど前日にお

祭りがあり、天守閣はもとより、乾小天守も解放されていて、見学する事が出来た。 

      桔木(はねぎ)構造の説明もうけられた。 平成13年11月4日