犬養城

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場所・・・栃木県宇都宮市上欠町字根小屋

姿川と武子川の合流点の北、この二つ川に挟まれた丘陵の南端に立地している。本丸はその東側、姿川の形成した急崖(比高約15m)を利用し、一部土塁を施し、一段低くなった所に堀りきりと武者走りをつけている。本丸の北・南は土塁とその外側の堀(上幅12m、底幅3.5-5.5m、深約5m)を折れ・そずみをつけてめぐらし、二の丸と区分している。 本丸・二の丸を含めて、その南・西・北・東側に大構えの堀(上幅12m、底幅2-3m 、深約3-5m)をめぐらし、その両岸に土塁(一部なし)を構築している。その西北部分に二の丸の張り出し部があり、堀と土塁は屈曲している。北側の堀の一部は破壊・削平されて水田となっているが低い地割で遺構が確認出来る。外構えは、南側の堀と北西部の堀きりによってなされ、南側には広く細長い外郭が形成されており、大手入口は土塁でそとにつうじている。外郭と二の丸・本丸との連絡は、二の丸・本丸を区分する堀の南端の土塁の一部を削平し、ここから架橋していったようである。二の丸・本丸にそれぞれ井戸跡のくぼみがあり、西の隅に櫓台跡の高台がある。宇都宮市内の城の中で、大規模でしかも保存状態がよい。なお、この城から丘陵尾根伝いに鹿沼に通じる古道がある。宇都宮領の西南の有力支城と考えられるが、詳細は不明である。

「栃木県の中世城郭跡」(財)栃木県文化振興事業団

伝えによると犬養城は康暦元年(1379)、小山義政によって小山城の支城として築城されたといい、元亀年間(1570-73)の初めには、北条氏政に攻められた為小山秀綱は父政長(高朝の間違いでは)を助けて奮戦したが敗北したという。そして 元亀四年(1573)犬養康吉が城主となって犬養十二郷を領したが、宇都宮氏に攻められ滅亡し廃城になったと伝えられる。いずれにしても、犬養城は規模の大きさでは飛山城に及ばないが、堀と土塁の構築方法は勝るとも劣らない堅古なものである。室町時代の典型的な平山城として、少なくとも県史跡に指定する価値は十分にある立派なものである。 「うつのみやの歴史再発見」 (塙 静夫) 随想舎

 


 

二の丸の虎口(土橋)


 

みごとな堀切


 

高-い土塁


 

本丸の井戸跡(ほとんど埋まっている)

 


 

 

訪問記

 

 下野オフ会の一番目の城攻めである(200.11.1)。解説あるように、堀切・土塁・それに井戸跡が二つも確認できて、感激だった。 城跡へ入るのに躊躇するほど、篠や竹などが侵入を拒んでいて、最初はみんな躊躇していた。堀切も大変深く、大変見応えのある城跡である。