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場所・・・利根郡月夜野町下津(関越自動車道 月夜野インタ−より約3km) 多くの武将が領土の争いを繰り広げていて室町時代の終わりのころ、上杉氏・武田氏・後北条氏のそれぞれが北毛に進出、利根沼田地域も次第に戦乱の渦に巻き込まれていった。 名胡桃城は、天正7年(1579)頃、真田昌幸が後北条から沼田城を奪い取る為に築いた前線基地といわれる。翌年、真田氏は沼田城を手に入れたが、その後も後北条氏との争いは絶えなかったため、天正17年(1589)豊臣秀吉により、両者の領地の取り決めが行われた。 しかし、後北条氏は、自領として渡されたおよそ利根沼田一帯の中で、なぜか本城だけが真田領として残ったことを不服とし、本城を攻略してしまった。 秀吉は服従していない関東東北の諸大名の私闘を禁じた「惣無事令」(1587年発令)に違反したとして、後北条氏を攻め滅ぼし、その後全国統一をなしとげた。 利根沼田地域は、再び真田領となり、本城は10年ほどの短い歴史に幕を閉じた。辺境の小さな山城であるが、ここを舞台にしたささやかな事件が、天下の情勢を大きく揺れ動かすきっかけになった記念すべき城である。
訪問記 二度目の発掘調査が(平成12年12現在)行われている。今は二の丸址を調査している。当時の建物は、北条氏の文献に「百姓屋敷」とあるように、掘っ立て小屋であったようである。保存会によってよく整理されている。 平成13年に現地説明会が開かれたようだが、チャンスをのがした。新しい道路が三の丸を横切っていて、場所はすぐわかるが、遺構を完全に破壊していて、残念である.
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