膳城

 

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場所・・・群馬県勢多郡粕川村膳

粕川村膳の、大胡-大間々県道の北側30メ-トル程入ったところに、兎川が県道と平行して流れているが、これを城の南限として膳城は築かれている。南北500メ-トル、東西250メ-トルの紡錘形で、北西部だけは平坦地に続き、他の部分は兎川とその支流を依托し、西北が高く東南が低い。本丸はやや西北に遍し一辺45メ-トルの正方形に近く、東北部が僅かに突出、西南部には折があり、そこから壕底に下って二の丸に通じる虎口が設けられていた。正面虎口は東の中央にあって、土橋の斜坂で東曲輪に下りる。周囲に深さ7メ-トル程の壕をめぐらし、この壕は西北と西とに支壕を派出し、西北のものは50メ-トル進んで外壕に出る。

膳城は膳家の伝承及び古記録によると、鎌倉幕府問注所執事三善康信が築いて其の子孫が代々住し、足利時代の城主民部少輔倫乗は関東評定衆八家の一として栄えたが、戦国時代、桐生、小俣、金山の連合勢に攻められて、城主備中守宗次は討死した。落城後遺子春松丸は上杉方前橋城に逃れ、後に佐位郡上植木で成長し、仏僧となって三慶院と号したが現俗して膳家の祖となった。天正7年9月下旬、武田勝頼は厩橋に出張し、東上野の先方衆に川西の兵を加えて、大胡、山上、伊勢崎等の諸城を攻略させ、勝頼も東毛を巡見した。勝頼等が平服で膳城付近にさしかかった頃、城では大胡民部左衛門に渋川主膳正が添えられて守っていたが、あたかも酒盛りの最中で,玉村五郎兵衛という侍が主膳正と口論を始め、那波、伊勢崎、片岡の落武者等と地元侍との喧嘩となった頃だった。外張りを固めていた雑兵が武田衆を見て走り出し、倉賀野秀景に打ってかかったので西上州衆がとって返し、平服のまま攻め入って民部左衛門等を討ち取り城を落としてしまった。これを「膳城素肌攻め」という。この戦いに長篠生き残りの原隼人佐昌勝が傷ついて倒れ、人々は勝頼の無謀を嘲ったと伝えられている。


 

案内石碑


 

三の丸


 

本丸虎口


 

搦め手口


 

 

訪問記

「昭和24年3月11日、県はこの古城跡を史跡として指定し、旧城主の末孫膳桂之助は永年保存を祈念し、これを大字膳に贈与した。遺志をついで嗣子雄之助は村人の浄財浄力により城跡碑を建て、膳家の親族、有志相諜り、城跡碑を建設し、永遠の記念とする。 昭和29年3月吉祥日 須藤義雄撰書」 と本丸跡の石碑に書かれている。遺構はすばらしく、良く残っていて、諸氏に是非訪城を勧めたい。                              平成13年2月25日(日)