蒼海城(おおみじょう)

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場所・・・群馬県前橋市元総社町

元総社町の大部分が蒼海城である。総社長尾の本拠となったところであるが、「上毛伝説雑記拾遺」の「総社記」によると、長元元戊辰年(1028)六月、上総介平忠常下総国より引移らる。その嫡子下総介常重、其の長子千葉介常胤、この時城鎮護の為に、五智の如来を城の四方に数個寺を建立有って安置す。とあり、治承四年(1180)九月頼朝より加勢御頼みの使者がきたので、常胤が親族を引き連れて鎌倉に赴いたが、これがため、平家の方人足利太郎俊国のために府中の民家が焼き払われた。千葉介常胤には七人の子があり、嫡子胤正は家督を継ぎ、二男相馬小次郎師常は高井に、三男武石三郎胤盛は武石(現在の立石)に、四男大須賀四郎胤信は須賀谷(現在の群馬郡群馬町菅谷)に、五男国分五郎胤道は国分(現在の同郡群馬町)に、六男東六郎胤頼は台村(現在の高崎市岩鼻町台新田)、残り一人は出家した。蒼海城は前記忠常の子孫、すなわち常重の子常胤に至って築かれたといわれている。その後、ここが長尾氏の居城となり、この地方の中心勢力となったわけであるが、長尾氏は当初は鎌倉姓で景正を祖とし、新五郎、新六郎に至って鎌倉氏を返上し長尾と改め、その後新五郎は足利に移った。子孫に景忠・景行があり、景行の子に忠房(賢昌)があったが、この忠房が総社長尾の祖といわれててる人である。戦国の動乱も天正十八年(1590)の小田原落城によって漸く終り、関東は家康の支配下におかれ、各知行の再編成がなされたとき、蒼海へ来たのが諏訪安芸守頼忠(諏訪小太郎)であった。時に天正十八年(1590)十二月、先主長尾は石倉に移った跡であるが、直ちに普請も成り兼ねて、城地のうしとら(北東)の方に長屋を建てて居住したと「総社記」にある。


 

案内板

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御霊神社と長尾氏由緒の案内板


 

 

蒼海城の北側を流れる牛池川


 

 

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宮鍋神社

 


 

 

訪問記

二度目の訪問である。宮鍋神社に蒼海城跡とあるが、本丸、二の丸はもっと西側にあり、本丸の西側には惣社長尾氏の末裔の長野氏と、長野氏の先祖を祀ってある五霊神社がある。現在も区画の整理はされてなく、道は狭く、小型車か゛一台やっととおれるようなところもある。本丸は竹藪に囲われていて、比高1.5mぐらいである。城の北側に流れる牛池川の地域は今年から区画整理が始まるとのことである。平成12年11月3日