|
女淵城 |
|
|
|
場所 -群馬県粕川村女淵 この城で特に目立つのは南北320m、最大幅90mの貯水池で、城の主用部は池の東側にあるが西曲輪だけが西側北部に置かれている。この郭は東を貯水池に拠り、東西50m、南北100mで、三方に堀と土居をめぐらし、西南隅には角欠きの雁木折がある。西面と東北隅に虎口が構えられ、東北のものは堀が南に曲がり込んで横矢を形成し、土橋は畷状である。 永禄二年、上杉謙信はこの城を略取して館林城代毛呂因播守季忠に与えた。永禄四年、季忠は謙信に叛して滅ぼされ、長尾顕長が館林城主となると、女淵城代には荒井図書がおかれた。その後、城は金山の由良氏の手に移り、由良氏の一族矢場氏が城主となり、女婿沼田景義が城代をつとめたようである。沼田平八郎景義は沼田城主沼田顕泰の末子であるが、沼田の動乱に父と共に会津に逃れて芦名氏を頼り、後女淵に来たのである。天正九年景義はその祖地を奪還しようと、由良氏、矢場氏の援けを得て沼田に迫ったが、諜られて憤死した。上野志には女淵の家老後藤新六入道が逆心を起こして景義を追って城主となったとある。
案内板
新しく積まれた石垣
西の郭の虎口
二の丸虎口
訪問記
現在は水堀の土塁がほとんど石垣になっていて、一部の柵の工事は終り、残りの工事が行なわれている。三の丸の西側の大きな水濠は、十年前から埋め立てられていて、公園になるようだ。一年間に掛けられる費用は決まっているので、長期にわたっているようだ。各郭のまわりにあった 水路はほとんど消滅している。東側には残っている。
|