那波城

(堀口城)

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場所  群馬県伊勢崎市堀口町

那波城は堀口町にあり、堀口城ともいう。市立名和小学校の校庭の隅に「那波城跡」と記した徳富蘇峰の書を刻んだ碑が建てられているが、この位置は那波城の外で、実際の城域は、主要地方道伊勢崎・本庄線の東に立地している。現在は遺構をほとんどとどめず、古図によって城の状況を考える以外にないが、その古図じたい、三重の長方形のきっちりした形をとっており、正確な見取り図というより概念図に近いとおもわれる。その図によれば、70メ-トル四方ほどの方形の本丸を囲んで、東西150メ-トル、南北250メ-トルほどの二の丸が囲み、その外に東西330メ-トル、南北500メ-トルの外構えが囲み、南東隅に昌雲寺となっている。その前を例幣使街道が走る。虎口は本丸・二の丸は南につけられているが、外構えの虎口は北・西・南と開く。

伊勢崎市史より

 


本丸跡

現在は伊勢崎市第二中学校になっている

 


 

万松山泉龍寺

伊勢崎、佐波地区の観音霊場めぐりの第十一番となっており、応永元年那波城主

 大江宗広が河内国より橘姓白崖室生を請して臨済宗に改宗し、応永十五年宗広薨

(こう)ずるに及び、万松山泉龍寺と改称、無本寺なりしを江戸時代に入り、鎌倉

円覚寺派末となり現在に至る。御朱印十五石拝領。那波氏(那波太郎広澄開基)

の菩提寺。


 

 

泉龍寺の本堂

寺域は広くきれいに整備されている。


 

縄張の東南にある昌雲寺

那波氏の祖は大江の広元の三子(あるいは養子)政広と伝えられている。

本堂の右側にある大きな水受けのカメには大江氏の家紋がある。

 


 

柴宿本陣跡

国道354号(例幣使街道)を五料橋に向かって橋の手前左側にある。

日光例幣使街道は、中山道倉賀野宿から分岐して壬生通りの楡木

宿に至るまでの十三宿で、柴宿はこの三番目の宿場であり、関根家

が代々本陣経営に当たっていた。本陣は元来、高級武士や公卿の

宿泊休憩施設として設置されたものである。構造は近世の武家住宅

を基本として、これに、店舗的要素を加えて発達した一種独特の機

能を有する建物で、柴宿本陣も概ねこの例にならっている。なお、関

根家には本陣当時の文書類、調度品が数多くのこされており、近世

                             交通史上貴重な資料となっている。         案内板より


 

訪問記

遺構としてはほとんどない。昌雲寺は那波氏の菩提寺ではなく、泉龍寺

である。本丸を示す物としての石碑があるのみである。名和小学校の

校庭の隅に「那波城跡」と記した徳富蘇峰の書を刻んだ碑があるが、

この位置は那波城の城外である。

 平成14年10月12日