勝沢城

(番城)

 

 

 

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場所  群馬県前橋市勝沢町字番城     

勝沢町字番城に勝沢城跡がある。字名のようにこの城は、ねね嶺城の支城(番城)であったと思われる。(しかし現地の人に聞くと嶺城よりもずっと古いので、それは有得ないといっている)。遺構は室町時代以降の城である。この城は建久元年(1190),今から800年前、鎌倉幕府の家臣藤沢清近(清親)の居城であったといわれている。清近は射術(弓馬の術)に秀でて、時の殿様源頼朝の腹心の部下として多大の戦功があったようである。当時は狩場をもとめてかなりの遠出をした。源頼朝も建久4年3月に下野国那須野から上野国三原の狩場を見んがためにこの地を巡回したという伝承がある。この時に、狩猟の達人を召抱え、その中でも弓馬術の秀れた者、頼朝に忠誠を誓う者二十二人が選抜され、その者には特に弓箭(きゅうせん)を帯びることを許した。その二十二人のなかに藤沢次郎清近が入っていたというから、余程の傑物であったと思われる。藤沢郷や藤沢川の名は、これに因んで遺されたものとおもう。勝沢は昔、藤沢と称していたが何時の頃からか今の名に変わったとのことである。この城は、住宅団地が出来るまでは、遺構がよく遺されていた。その概要は東西、南北約200メ-トルの遺構は良く保たれていた。中央に南北に通る壕(大堀と仮称する)があり、これによって城は両断されている。大堀と直交する他の堀は、皆この堀より浅いことに注意を要する。本丸は大堀の東にあり、南北50メ-トル、東西60メ-トル、北に幅15メ-トルの帯曲輪がつき、両郭間の堀には「折」が見られる。東にも狭い帯曲輪様の外郭を隔てて4-5メ-トル低い城外にのぞむ。そこは小流が南に向かって流れている。(現在は道路のしたに四面コンクリ-トに囲まれて流れている。南側にも郭が並ぶが、宅地となって原形を失ってしまった。本丸と並んで大堀の西100メ-トル、南北70メ-トルが二の丸で、東西100メ-トル、南北70メ-トルの大郭は土を堀とって南側にならしたため低くなり、南側の堀はとんど認めがたい。二の丸の北30メ-トル、東西40メ-トルの別郭が並ぶ。南側の郭も確認することは、困難である。大堀によって二分された城の形態は一城別郭の構えと見えるが、全般には列郭式の縄といえよう。一城別郭の構えは、戦国中期迄の形式で、山城、岡城に多く、平城には少ない例である。

「芳賀村誌」より


 

藤沢氏の菩提寺「藤沢山 正覚寺」跡

以前は公民館でもあったという


 

 

本丸と二の丸との間にあった大堀跡(北から望む)


 

 

本丸南にあった堀切跡

この南側が元屋敷である

 


 

藤沢川を南から望む

この川の下流は上泉伊勢守の居城 上泉城の東側に至る。

上泉地区ではその昔、城川(じょっかわ)といった。

 


 

 

オブ塚古墳

前方後円墳である。勝沢城の西南に位置する

 


 

 

本丸北の堀切跡

住宅団地が出来て遺構はなんにもない


 

 

 

本丸側から元屋敷を望む

埋め立てた堀切は何にも利用されていない


 

 

散兵堀

本丸の西にあり、僅かに残っている遺構の一つである。

この堀はじぐざぐに出来ていて、この堀の内側に隠れて敵を迎え撃った。

今は5メ-トルぐらいしか残っていない。すごい藪である。


 

 

訪問記

 土地の年配の二人の人に色々伺ったが、遺構らしきものは少なかった。城としては、歴史があり、大堀や堀切は住宅団地が出来るまでは良く残っていたらしい。 大堀の深さは電信柱の半分ぐらいあったという。誠に残念である。芳賀地区には全部で,城、館、砦合わせて12ヶ所もあったという。他の城郭を引き続き訪ねてみたい。