上泉信綱及び上泉家年表                             諸田政治 著 「上毛剣術史(中) 剣聖上泉信綱詳伝」 より
年号
西暦
摘要
享徳 2年
1453
・ 一色源五郎義秀(左京太夫義春の子、信綱の曽祖父)京師より来たり、名門俵籐太 秀郷以来の大胡家再興。義秀は中条流,念流、京流兵法の達人なりと伝う。
享徳 3年
1454
・ 長男時秀(信綱の祖父)出生。幼時より父に付厳しく兵法修行せしと伝う。
康正元年
1455
・ 上泉城築城。それより上泉姓を名乗る。これより累代関東管領山内上杉家被官となる。所領、大胡,上泉、山上、花輪、三俣(現在の地名と全く同じである。
長禄 2年
1458
・ 義秀上泉寺(じょうせんじ、現在廃寺)開基。西林寺東方約250メ-トルに、その遺跡あり。現在の前の公民館跡。
寛正 6年
1465
・ 義秀、橋林寺開基の計画を為す。(現前橋市神明町にある名刹)
応仁元年
1467

・ 四月末日、京師(けいし、京都)より飛札。(呼状)義秀出陣、後事を長尾景信父子に託す。

・ 五月応仁の乱始まる。五月二十六日義秀京師において戦死。享年三十五歳。法名 普世(ふせ)正眼禅定門。墓碑上泉寺にありとある。

応仁 2年
1468

・ 上泉時秀 十五歳。主水佐(もんどのすけ)と称す。飯篠長威斎(いいざきちょういさい)入門。天真正伝、神道流修行。このとき長威斎八十二歳なり。口碑に鹿島修行という。(この時勢多郡三夜沢村、赤城神社神官息、奈良原刑部も同行したか?)

・ 松本備前守政信(信綱の師)出生

文明 5年

1473
・ 長尾景春、橋林寺開基。畏友上泉義秀及び亡父景信の遺志を遂げる。

文明 6年

1474
・ 上泉時秀 二十一歳。兵法諸流の刀術修行成る。従五位下、伊勢守(初代)
文明15年
1483
・ 嫡男上泉義綱(信綱の父)出生。幼名主水佐(もんどのすけ)と称す。この時より田原(俵)藤太八代の孫足利太郎成綱の綱を、上泉家に用いる。
文明16年
1484
・ 漂泊の兵法者愛州惟香斎(あいすいこうさい)第一回?来泉、陰流の刀術を上泉時秀に伝える。以来数次に亘り、上泉城を訪れたという。(惟香斎時に三十歳)上泉文書には三好日向とあり。
文明18年
1486
・ 太田道灌扇谷定正に誘殺される。

長享 2年

1488
・ 兵法の始祖飯篠長威斎没、享年百二歳。
明応 3年
1494
・ 小田原城主大森氏頼没(信綱の正室曽祖父)。
明応 9年
1500
・ 義綱十八歳、父時秀の添書を持ち、松本備前守政信へ入門、鹿島神道流刀術修行。この時松本備前守三十三歳。
文亀 3年
1503
・ 義綱二十一歳。刀術修行なる。従五位下武蔵守(初代)。
永正 3年
1506
・ 義綱嫡男(諱いみな、不詳)信綱の兄出生 上泉主水佐(早世)。
永正 4年
1507
・ 愛州惟香斎奥羽地方遊歴の途次来泉上泉義綱に陰流兵法を伝う。
永正 5年
1508
・ 次男源五郎秀綱出生(信綱初名)。
永正 8年
1510
・  参男外記(信綱弟)出生後上泉小兵衛と称す。
永正10年
1513
・ 信綱六歳、父、祖父指導の下に兵法諸流の修行を始める。骨格雄偉にして宛ら十余歳の少年の如し。
永正14年
1517
・ 女子出生(信綱妹)後、長野業正室となる。
永正16年
1519

・ 信綱十二歳、兵法上達父及び祖父を凌駕する。骨格また然り。

・ 三夜沢赤城神社に参籠修行、その当時の神官奈良原:刑部は兵法の達人なり伝えられる。

永正17年
1520

・ 北条早雲没。

・ 信綱十三歳、父、祖父の添書を持ち松本備前守に入門、政勝(政信)その偉材ぶりに一驚すという。

太永 4年
1524

・ 信綱十七歳、天真世伝神道流の奥源を受ける。

・ 信綱帰郷する。

・ 十月剛勇松本備前守鹿島において戦死享年五十七歳。

太永 6年
1526
・ 長野信業(業正実父)箕輪城築城。
享禄元年
1528
・ 信綱二十一歳、従五位下伊勢守この年十月小田原城主の末裔大森式部少輔泰頼女を娶る。
享禄 2年
1529
・ この秋、信綱妹、上州箕輪城主長野業正に嫁ぐ、妹十六歳、五年後に早世。
享禄 3年
1530

・ 愛州惟香斎来泉、信綱の剣技に驚嘆、陰流を伝える。

・ 信綱祖父時秀没、七十七歳。

・ 信綱嫡男秀胤出生、父信綱に酷似するという。初名源五郎と称す。

享禄 4年
1531

・ 信綱二十四歳、陰流奥源を受ける。惟香斎より陰流の伝書、秘巻、太刀一腰及び、占術書、愛州薬方等の一切を信綱に相伝す。

・ この年の春、愛州惟香斎漂然と上泉城を旅立つ、この時七十六歳。其の後沓として消息不明。

天文 2年
1533

・ この頃?信綱韜(ふくろしない又はひきはだ)を発明。後世柳生家に於いてこれを改良、これにより剣術の進歩は従前に倍加する。

天文 5年

1536

・ この頃より信綱兵法諸流の奥源を併せ新陰流と号した?(柳生厳長氏は三十五歳頃といわれるが・・・) 

・ 信綱箕輪城下の白岩観音参龍。堂守浜名義剛法印とは親交ありとつたえられる。

天文 9年
1540

・ 嫡男秀胤十歳、大炊介(おおいのすけ)と称す。

・  信綱小笠原入道氏隆つき、軍法軍配修行し、その相伝を受ける。

・ 信綱の剣名漸く高く、その門に学ぶ者甚だ多く、疋田、羽田、神後、広瀬、原沢、丸目(蔵人ではない)は、その高弟なり。

天文年間
 

・ 信綱、長子秀胤及び高弟十余名を引き連れ、全関東を周遊する。試合その数を知らず。一度も敗れたることなし。

・ 塚原ト伝来泉、信綱より兵法の必要を得る。

・ 箕輪安中に隙あり、長野業正安中を攻める。信綱義弟業正に与力して、剛勇安中左近を討ち取る。業正信綱に感状(上野国一本槍)。

・ 信綱室没、没年不詳。

・ 信綱第一回上洛、遠祖一色義直菩提及兵法弘流のため、途中三河に駐留する。

1、山本勘助との試合(勘助負けて甲州に走る。

2、奥山孫次郎(休賀斎)及び小笠原長治(玄信斎)の両名信綱に入門。

・ 京都正福寺において先祖供養を行う。この時権大納言山科言継(やましなときつぐ)と相識る。

天文15・6年の頃
1546

・ 上泉嫡子秀胤と共に小田原にあって兵法興業、剣名大いにあがる。北条氏康、綱成ら入門、北条家兵法師範となる。これより、嫡子秀胤北条家に仕える。

・ 秀胤京都平野社大祝吉田兼興末妹を娶る。(早逝)。

・ 信綱再婚(三十八歳)勇将北条左衛門大夫綱成の女を娶る。

・ 上泉義綱(信綱父)没、享年六十四、五歳。

天文17年
1548

・ 信綱帰郷。

・ 信綱次男有綱生まれる。(小林姓を名乗り右近之介と称し、北条氏滅亡後上杉家に仕える)。

天文20年
1551

・ 北条氏康大軍を率いて上杉憲政を上州平井城に攻める。長野、大田、和田、大熊、信綱ら勇戦遂に及ばず憲政敗走する。山内上杉家終る。

・ これより信綱、長野家被官となる。

・ 信綱三男行綱生まれる。(石森姓を名乗り源左衛門尉と称し北条氏滅亡後、上杉景勝に仕える)。

・ 秀胤二十二歳、伊勢守となる従五位下これより信綱武蔵守を称す。

天文21年
1552

・ 秀胤、この年正月、高崎の豪族和田兵部亟の女と再婚。

・ 主水泰綱(信綱孫)出生、初名源五郎後主水佐と称す。

・ 足利義氏古河公方となる。る

天文22年
1553

・ 古河公方の足利御所に於いて、信綱兵法興業勇武を示す。前公方足利晴氏、義氏並びに配下の諸將、こぞって信綱に入門する。

・ 信綱、古河公方家兵法師範となる。剣名関八州に振う。

弘治元年
1555
・ 公方足利義氏の兵法大いに進む。よって信綱新陰流の印可を授ける。特に義氏の強い要望あって仮名書の印可状を与える。
弘治 3年
1557
・ 四月、武田信玄箕輪城来攻、上泉秀胤は信玄嫡子太郎義信と一騎討、之を敗走させる。
永禄 2年
1559

・ 上泉伊勢守秀胤、西林寺開基。

・ 信玄箕輪城再来攻、これより数次に亘り来週するも、業正、信綱等勇戦のため、その目的を達し得ず。

永禄 4年
1561

・ 勇將長野業正没。

・ 九月、川中島合戦。

永禄 6年
1563

・ 箕輪城落城、長野業盛討死、信綱浪人となる。

註 長年寺古書筆録及び武田信玄願文により落城は永禄9年なりという設あり。

・ 信綱短期間剣友桐生大炊介に身を寄せたという設あり。

・ 武田信玄の要請を、信綱兵法弘流のためと称して辞退する。

・ 信綱出郷。神後伊豆、疋田文五郎随行、この時ね上州に残った高弟に、羽田源太左衛門、広瀬新蔵、原沢左右衛門あり。

永禄 7年
1564

・ 上泉伊勢守秀胤、鬼神の如き勇戦の後、総州鴻之台に於いて戦死、享年 三十五歳。

・ 愛州小七郎惟脩、常陸の佐竹氏に仕える。

・ 信綱一行伊勢に至り北畠具教を訪ねる。この途中にて、幼児を強盗より救助する。

・ 具教の紹介でね奈良宝蔵院を経て、小柳生に逗留。

・ 柳生宗厳との試合、宗厳、宝蔵院胤栄、松田等入門。

・ 信綱、疋田を柳生に残し京都正福寺に赴き、上泉家遠祖一色義直、義春、義秀の菩提を弔う。

・ 知友山科大納言(言継卿記筆者)と、再会する。

・ 信綱孫主水泰綱上洛し、父秀胤の戦死を告げる。信綱慟哭。この時泰綱十三歳。これより泰綱祖父信綱につき、兵法修行するる

・ 信綱と丸目蔵人佐との試合説あり。丸目蔵人佐入門する。(天文末年説あり、これが正しいと思われる・・・とすれば信綱第二回上洛の頃か?)

永禄 8年
1565

・ 6月18日(3月10日は誤り)足利御所に於いて丸目と共に兵法台覧、義輝より感状(信綱兵法天下一、丸目天下の重宝)

・ 御所兵法師範、千秋刑部と試合、義輝、刑部共に入門する。

・ 柳生石舟斎宗厳に新陰流印可状。(卯月吉日)

・ 宝蔵院胤栄に新陰流印可状(8月)。

・ この年京都大和柳生を足繁く往来し新陰流の普及弘流に努め、近畿一帯は勿論、中国辺まで弘流のため、足をのばしたという。

永禄 9年
1566
・ 柳生宗厳に新陰流影目録(三巻)を与える(5月吉日)。
永禄10年
1567

・ 主水佐泰綱兵法修行成り、京都より小田原に至り 北条家に仕える。

・ 丸目蔵人佐に新陰流印可状(2月)。

・ 信綱添状を奢婆宮内大輔に託し山科言継へ。(1月15日)

元亀元年
1570

・ 信綱兵法天覧従四位下(6月27日)この時、菊花御紋章入御前机下賜(菩提寺西林寺に現存)。

・ 将軍義輝以下に軍配、取向、総捲を相伝(5月22日)。

・ 言継卿外二名に占術教授(調子の占)7月19日。

・ 梨門に御暇に参上、兵法台覧、千秋刑部、鈴木意伯らを相手に興業、その神技を示す。8月10日

・ 8月18日、千秋刑部、鈴木意伯を相手に兵法興業、将軍義輝、山科言継等参観。

・ 8月19日、上同じ。

・ 10月22日、山科言継訪問、この日尾張衆木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)山城に出陣、信綱、言継等見学。

元亀 2年
1571

・ 3月3日、山科言継より香蕾散(朝鮮人参主剤、強精薬)一包贈られる。

・ 3月9日、愛州薬方を書贈られる。(信綱原本消失のため)。

・ その翌日の3月10日大和柳生に旅立つ。

・ 7月3日、信綱兵法教授のため、大和柳生に滞在していたが、この日京都に帰る。言継と会談。

・ 7月21日、信綱親王御方御筆の短冊二枚拝領。

・ 信綱京都を去る。嫡子秀胤七回忌供養の為帰郷、山科言継、信綱のために下野結城家に添状を書く。

・ 結城家逗留兵法師範となる。

・ 上野国西林寺に於いて、秀胤七回忌供養(10月?)。

・ 新当流の達人海野能登守晴幸上州沼田城に於いて戦死。

・ 北条氏康没。

元亀 3年
1572

・ 塚原ト伝没。

・ 柳生宗矩生まれる。

元亀 4年
1573

・ 信綱孫主水佐泰綱、北条左衛門佐氏忠の女娶る。

・ 武田信玄没。

天正 2年
1574
・ 信綱再び小田原北条氏政に招かれて兵法、軍学師範となる。信綱次男有綱ね三男行綱及び、孫主水佐泰綱、師範代としてこれを補佐する。
天正 5年
1577
・ 上野国西林寺に於いて、秀胤十三回忌供養(この記録は西林寺に現存)。
天正 6年
1578
・ 上杉謙信没。
天正年間
 

・ 北条氏政佐野結城等と利根川挟んで合戦、主水佐泰綱勇戦、北条氏政より感状。

・ 山崎の合戦。

・ 本能寺の変。

天正10年
1582

・ 天目山の戦い武田家滅亡、織田信長死、明智光秀戦死。

・ 剣聖信綱小田原にて没、享年七十七歳。

・ 宮本武蔵生まれる。

天正11年
1583
・ 主水佐泰綱嫡子秀綱出生、幼名源五郎後主水佐となる。曽祖父信綱にあやかり秀綱と名付ける。(多に姉二人あり石倉ね神保氏に嫁す)。
天正18年
1590
・ 小田原北条氏滅亡、氏政自殺、上泉有綱、行綱及び甥主水佐泰綱浪人となる。泰綱一時館林榊原家に身を寄す。
慶長 2年
1597

・ 主水佐泰綱嫡子秀綱と共に越後に至り上杉景勝に仕え、直江兼継の手に属す。

・ 上杉景勝泰綱に預力300騎を、子息秀綱に1500石を与う。

慶長 3年
1598

・ 上泉有綱、行綱兄弟(信綱次、三男)越後に赴き甥の主水佐泰綱に与力する。

・ 上泉行綱、石森姓となる。(この行綱は名古屋上泉氏の祖でありその孫治郎左衛門は池田家に仕える。「常山紀談」に武名高し)。

・ 信綱曽孫秀綱四本松郡代安江四郎右衛門繁家女を娶る。

慶長 5年
1600

・ 関ヶ原合戦起こる。上杉景勝西軍石田三成に組して伊達、最上を攻める。上泉主水佐泰綱主命により最上領に出陣、直江山城守兼継と争論あり。

・ 信綱曽孫秀綱長女出生、男なく後志田家より婿を取り、上泉家を相続。

・ 主水佐泰綱9月29日長谷堂に於いて勇戦の後戦死。金原七蔵その首を取る。享年四十四歳。法名機山宗しつ居士。

・ 敵將最上義光その死を悼み熊野宮を建立その霊を弔う。

 

慶長 6年
1601
・ 上杉景勝、羽州米沢に移住、禄高三分の一となる。(関ヶ原合戦に西軍に荷担のため)。上泉源五郎秀綱1500石を500石に減禄主家と運命を共にする。
慶長 9年
1604

・ 秀綱次女出生(後、同藩四本松郡代安江室となる)>

慶長19年
1614
・ 大坂冬の陣起こる。秀綱上杉景勝に従い参陣、鉄砲百挺の長となり勇戦、11月26日に志宣野表に於いて重創。
元和元年
1615

・ 秀綱2月14日京師に於いて戦傷悪化により没。享年三十三歳。

・ 男なし、長女に執政志駄修理義秀源十郎を娶わせ家督相続する。禄高300石に減ずる。(養子ゆえ)。上泉主水秀富と称す。

元和 5年
1619
・ 秀富実父志駄義秀より、足軽一隊を預かり、主水町に邸を賜る。主君上杉定勝の恩遇厚く恩賜十数回に及ぶ。
万治元年
 

・ 秀富没(8月29日)享年五十五歳。法名 厳翁道桂居士

・ 嫡男源十郎秀風家督(11月5日)

寛文 3年
1663

・ 秀風大小姓、馬廻役となる。同時に江戸勤番を命ぜられる。

・ 主家上杉家養子の為知行半減。従って上泉家も禄高200石に減じられる。

元禄10年
1697
・ 秀風没、享年七十三歳。法名 秀風院殿罷山常伏居士