伊勢崎城

(赤石城)

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場所  群馬県伊勢崎市曲輪町

伊勢崎城は広瀬川東岸の崖端上に築かれた城で、伊勢崎市街地の西部に位置している。古くは赤石城といったが、戦国時代の状況については不明な点が多い。この点で、天正元年十二月二十七日の由良成繁書状が注目される。すなわち城郭の北の「神のがけ(崖)」(伊勢宮の崖)から火矢を射かけられ、それが力丸安芸屋敷・安俣方屋敷などに「射付き」(つきささり)、そこから火災が発生し、折からの北西風にあおられ、乾曲輪・東曲輪を残して消失した、というのである。この記載から天正元年(1573)の段階には、本丸を中心に、乾曲輪・東曲輪などの諸郭が囲み、江戸時代の酒井氏の伊勢崎城の元になるほぼ同様なブランが出来上がっていたと考えられる。江戸時代の伊勢崎城は、カギの手に曲がる西町を本町の通りの接点の近くに大手の虎口をとり、東には旧大手であった虎口が開いており、ここには馬出しと隠し郭が構築されている。この土塁上に櫓台が置かれ、東には紺屋町の通りがある。

伊勢崎市史より

 


 

本丸跡

現在は伊勢崎市立図書館になっている

 


 

縄張り図

現在伊勢崎市立図書館に保管されている。

「寛政十年七月」とあるから1798年の作成と思われる。


 

 

二の丸跡

現在は伊勢崎市立北小学校


 

同聚院(どうじゅういん)の武家門

同聚院は先ごろの町名地番の改正で、曲輪町に入ったが、それ以前には泉町と呼ばれていた。泉町という町名が、どの様な由来でつけられたのか不明だが、大正十三年の四月一日から旧袋町と呼ばれていた地域が、泉町と変わったのである。袋町という地名は江戸初期以来の古い地名であり、天和二年(1682)九月の伊勢崎町田畑名寄帳という古い記録に記載されている町名なのである。天和二年が三百二十年前であるからおそらく三百五十年程前から袋町という地名が出来たものであめろう。同聚院という寺に、領主の位牌を置いたので、馬などを引き入れて、位牌に馬が尻を向けると、殿様に不敬になるので、通り抜けの出来ぬ袋小路の町を作って、袋町という名をつけたと伝えているが、戦国期末の天正十八年まであった赤石城の地域が、こ同聚院から剣埼(乾崎)の地域一帯だったもので、従って城へ行き止まりになる道筋だったために、町屋が出来た後に前記の様な町名がつけられたものであろう。写真の門は、同聚院の武家門の名で古くから呼ばれている建物であり、通例寺院の門は山門(三門)又は楼門とも呼ばれるのに、この門は乳鋲附の扉を持つ武家の長屋門の面影を止めている門なのだ。現在は改修されて、門の両袖にあったと思える門番の控え部屋に当たる長屋は取り払われていて、築地塀に替えられている。武家門と呼ばれる理由は、慶長六年(1601)に、勢多郡新川の三千石の大名の旗本から、初めて一万石の大名として伊勢崎に乗り込んだ稲垣平右衛門長茂が、この寺地に住んだ為と考えられる。茂は家康の部下の中でも剛勇の名の高い人で、赤茶けた頬ヒゲをはやしていたので、家康から赤ヒゲと愛称された人だった。家康は三河にいた頃に、一向一揆に悩まされて、親族や譜代の家来たちまでが、主人よりもお寺様や仏様の方が来世までの救い主だということで、小さな砦や城に立て籠もられた苦い経験の持ち主だった。従って天正十八年に小田原攻めの戦功で関東八ヶ国の実権を、秀吉から与えられると、自分の家来達を要所々々に配置して、その城主の居城以外の小城や砦はみな破却させたのだった。この考えが後の一国一城にまで発展するのだが、稲垣長茂が来た時には、赤石城や毛呂城などは破壊された後だった訳だ。長茂は一万石の殿様になった事でもあり、早速城とそれを取り巻く城下町形成に取り掛かったのだが、その間の仮の住居を、同聚院の今の寺地に定めたのである。当時同聚院は現在地の裏手の沼のあった附近の台地にあったのだという。伊勢崎城や後の伊勢崎の町屋は、稲垣長茂と、その子重種(重綱)の二代で構築されたものと考えられる。城が完成すると稲垣氏は、その方へ移り後を同聚院が譲り受けて寺地としたもので、門はその後改修を加えられたが、三百九十余年の風雪に耐えてきた。伊勢崎市最古の建築物であり、市の重要文化財でもある訳である。手前左右の通りは現在「武家門通り」となっている。

 


 

文明の石憧

同聚院本堂の右側にある


 

訪問記

遺構としてはほとんどないが、 同聚院にある武家門は320年前のものが、保存状態はあまりよくないが、よく残したと思う。伊勢崎の名前の起こりは本丸の南にあった伊勢宮だという。ここもまた、上杉・武田・後北条の時代に翻弄された城だったようである。 平成14年10月6日