原之郷 金山城 (岡城)

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場所・・・群馬県勢多郡富士見村原之郷字岡、字反町
大胡城の支城であろう。「今も城濠及び中城、西城、東城の名が残っている。記録の伝えるところによれば、本城は高山氏の祖源義政の築城したもので、義政は新田義重の孫にあたり、義兼の次男であり、新田の金山から名をとって金山城とし、城の坤に八幡宮を勧請し、又、東方に守本尊である虚空蔵を安置し、且つ、地名によって苗字を岡と名乗った。その後七代目の貞房の時に、吉野の朝廷方に属し、宗良親王及びその子良王君に仕えて、遂に信州浪合に戦死した。その子氏房は足利氏に属し、苗字を高山と改めたというのである。但、この記録は江戸時代に作られたものであり、その内容も作為された点がみえるうえに、浪合記(江戸時代の作)によっているところが多いので、確実な資料とすることはできない。」
富士見村村誌」より

 


 

 

本丸跡

現在も高山氏が居住しているが先祖の資料はないという

しかし、近所の人の話では、近くの有識者が調べて、
あったというが、それも又詳細はわかっていない。


 

 

中城・西城

南北の堀は今は道になっていて、東西の堀の遺構は少し残っている。

 



本丸南の濠の土塁

濠は竹薮や桑畑になっているが、土塁は東西に100m位残っている。
埋められた濠は、今でも夏季には水がにじみ出るという。

 

 

 

金山城の案内石碑

 

昭和35年に建てられた石碑


 

 

 

本丸虎口

50m位の城道が続く。


 

訪問記

 時沢から国道17号に向かって行くと、細ケ沢川の手前左側にある。本丸の北を通る道は、以前にはなかったという。本丸の北にあった櫓台は、その道を作る時にとりくずしたという。比高4m位で、上は八畳位あったそうである。濠はほとんど埋められていて、一部は用水路として残っている。他の城址と同じで、中世期の資料はほとんどのこっていない。只、今も高山氏が住んでいて、四、五軒かたまってある。東方にある虚空蔵曲輪は地名として残っていて、一月十三日には、虚空蔵曲輪の人が赤飯を炊いて、皆さんにご馳走するそうである。前橋市西片貝町にある 虚空蔵様と同じで、目の神様だと言われている。

平成13年4月29日(日)