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毒島城

 

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場所  群馬県佐波郡赤堀町今井

今井の北に毒島城跡がある。現状は水田中に盛り上がった丘になっているが、古くは東西500メ-トル、南北400メ-トルの沼の中に孤立した島であった。西には茶臼山(多田山連丘の北端)、北は吉沢峯、東は轟山、南は人工築堤である。上から見れば「ひさご形」の前方後円墳の様である。島の西に巨岩あり、馬蹄の跡のようなくぼみがあり、上杉謙信の馬の蹄の跡という。島の東南築城壁には鎌倉期の五輪塔が石垣状につまれ板碑片が散乱している。後円部に小墳丘があり、小穴があいていたという。穴の中にむじながすんでいたとか。東西150メ-トル、南北100メ-トルあり、本丸とそれを囲む腰曲輪からなり、虎口は西南中央の板虎口只一箇所である。今では本丸への入り口は三箇所ある。城主毒島勘解由長綱は、永禄年中桐生氏に属し、後桐生市広沢の「広沢の寄居」に移った。この城には次の様な伝説がある。城主青木入道が三浦河内守謙庭公に攻められた時、この沼には一匹の大蛇が住んでいて寄せ手を苦しめた。そこで寄せ手は七つの石臼で毒をつき、吉沢峯の取水口から流し込んだところ、大蛇はいたたまれず西へ脱出し城はたちまち落ちたという。若君は仁田山の絹問屋(糸問屋)に落城の前晩に助けだされて仁田山方面に落ちたという。吉沢峯に今も大きい臼が残されている。これを毒臼と呼んでいる。又、城主牧弾正が上杉謙信に攻められたという。建長三年、布須島尼が念仏をとなえながら往生したということが金沢文庫の「念仏往生伝」にあるが、毒島城とぶすじま尼の関係はなにかあるのではないかと思うが、これも不明である。

                                             赤堀町誌より


 

本丸東側に付く腰曲輪下の切岸

道の部分は勿論沼であったろう

 


 

上杉謙信の馬蹄の跡

中央の窪みが馬蹄の跡である。

 


 

 

虎口

これが唯一 の虎口か?

 


 

腰曲輪

本丸東側に付く腰曲輪で虎口から続いている今は公園になっている。

 


 

本丸

今はやや傾斜はあるが一面 畑である

 

 


 

 

訪問記

表記にあるように沼にぽつんとある島といった感じの城跡ある。

上杉謙信の馬蹄の跡と言われる岩が今もあり、全体的には

保存状態の良い城跡である。

平成14年9月1日