赤堀城

 

上野国北部

上野国中部

上野国南部

上野国東部

上野国西部

他の国

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

場所  群馬県佐波郡赤堀町今井小字城1407、1408番地

赤堀城は西の粕川、東の鏑木川との間に築かれ、東西170メ-トル、南北350メ-トルの地域を占め、中央の本丸跡には、北面、東面に高さ4メ-トルの高土囲がある。本丸は一辺80メ-トルの正方形で、北と南とにある虎口は共に順の喰違い構造である。本丸の北から東を巡って南まで二の丸が囲み、北面には土囲と濠跡が残されている。伝承によれば壕の北1413番地に現在佐藤家があり、ある時屋根換えをするので、家の前側に梯子をかけ登ろうとしたところ、梯子が旧井戸のような穴に入り込んでしまった。不思議だというので掘ってみると南の濠の北のかどに赤土面に黒色の穴跡があちこちに通じていたという。村人はこれはお城の抜け穴で、本丸から抜け出す穴であったろうといっている。南面には濠跡があったがこわされてしまった。二の丸東面は鏑木川の氾濫によって消滅したしまった。更に南と北の最外側には小郭がそれぞれ着いていたようである。本丸東南隅に八幡宮があり、その後又北東隅に移されたとみえ木馬武者像がのこされていたが今ではその破片すら見当らない。五輪塔一基がのこされている。この城は赤堀氏の居城だという。赤堀氏は田原籐太藤原秀郷の裔と伝えられ、足利俊綱の子足利又太郎忠綱の弟泰綱の玄孫孫太郎教綱を祖とする。教綱六世紀の孫下野守親綱の頃(文明年間)那波宗政に城邑を強掠され金山の由良氏に投じた。由良氏は那波氏を討って助成し、教綱の玄孫景秀まで赤堀に在城したが、その子越前守時秀は城を捨てて金山に去った。その後小菅摂津守が三代領有したという。小菅摂津守の母の位牌と摂津守の刀箱が、佐藤家に保管されている。川中島の中島を苗字としたという中島氏、十国峠辺の千吉良村、小菅村が国道を境にしてあるが、小菅氏の発祥地はその小菅村、千吉良氏の発祥地は千吉良村であるという。板野氏、阿久津氏もこの小菅氏の重臣で、赤堀城内外に土着帰農したものである。小菅摂津守の子孫の行方は明らかでないが中島、千吉良、板野、阿久津の一族はみなこの辺に栄えている。赤堀氏は光林下組に左太夫屋敷跡というところがあるが、ここに移住した時代があるのか、それとも住居が光林太郎時秀代から、ここに居住し、居城が今井だったか不明である。小菅氏は赤堀氏にかわって、赤堀郷を領有したようだ。大坂の役に出陣し、伏見で討死してしまった。赤堀郷の郷土を従えて参戦したものとみえる。田部井氏、須藤氏の一夜飾りの伝承(秋間氏、佐藤氏も昔は一夜飾りだったという)もこの大坂の出陣から帰ってきた時から始まるという。小菅摂津守の墓碑は市場12番地板野氏の墓地にある

                                                    赤堀町誌より


 

本丸

現在は10軒の地主によって耕作されていて、農地解放によって取得したという。

 


 

北虎口と約3メ-トルの高土囲


 

 

本丸北側に残されている五輪塔(右側)

本丸東南隅に八幡宮があり、その後北西隅に移され、その後又北東隅に移されたとみえ木馬武者像が残されていたが今ではその破片すら見当たらないという。この五輪塔はそこからここへ移されたという。


 

本丸北側にの高土囲

 


 

西側(粕川)から赤堀城を望む

 

 


 

 

 

訪問記

南側の産泰県道を通る度に気になっていた城である。まわりを高い土居にかこまれた広い城祉である。農地解放まえは一人の地主の所有であったという。

平成14年9月1日