桐生城(檜杓山城)

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場所・・・群馬県桐生市梅田町

この城は南北朝の始め桐生国綱が三年の月日をかけて築いたものといわれ、碑のある所が本丸の跡で、うしろに二の丸、三の丸があり、東に桐生川、南に渡良瀬川をめぐらし西南の丸山と東南の浅間山に砦をかまえ、その間に新川を掘って要害堀とし、東西の山地には物見山その他の小さな砦を備えて万全の構えを示し、桐生実城と称された城主 桐生氏は助綱の頃まで繁栄したが天正元年 助綱の子親綱のときに築城以来二百二十年で金山城主由良成繁に滅ぼされた。由良氏は二代目国繁のときに小田原の北条氏に味方して豊臣氏に敗れ、わずか十八年で常陸国牛久に移され、この城は廃城となった。


 

 


本丸の石碑

三波石に似た石で出来た石碑で、大きさに驚かされる。 良く整備されていて気持ちか゛よい。 本丸は楕円形で東西125メ-トル、南北75メ-トル、周囲に腰曲輪をめぐらし、 東南面と西面ではそれが二段になってい北面腰曲輪は他の部分より一段低く、全体として 螺旋状に廻って詰めの郭にのぼる。詰郭の西、5メ-トル低く弧形の武者屯がある。虎口は南面 に向かい、道 は雁木坂となり、西側の竪壕で絶つ。

 

 


 

 

 

本丸の腰曲輪

 

 


 

 

 

城道

本丸までの城道はほとんどこのくらいの幅である。

 


 


 

堀切

本丸下の堀切である。

 

 



 

 

二の丸

二の丸は、西北-東南の長径130メ-トル、幅30メ-トルで細長く、長さ90メ-トル、幅30メ-トルの郭は西縁に土居が盛られ、周囲(西北面を除く)に腰曲輪をめぐらし、西端には本丸のものと同型の弧状の武者屯を備える。北部は三段の連結部がのび、堀切を隔てて北曲輪につづき、西北は 堀切のむこうに三の丸がある。

 


 

 

 

三の丸

三の丸は、東西75メ-トル、幅25メ-トル。南側は腰曲輪状である。郭面は西が高く東の低い四段になっている。西端、西搦め手虎口の内側は方15メ-トルほどの武者屯が構えられているが、これは掘り下げたもので2メ-トルあまり窪み、東南部は腰曲輪に開く。西搦め手の堀切底は三の丸より3メ-トルも低く、南北両端竪壕に移行し山腹を下る。

 


 

国有林野買受記念の板碑

昭和26年6月、国有林野整備臨時措置法 が施行せられ、自治の興隆と村財政の強化を計るため、買受の運動を起こし、茲に実現し、梅田村の将来に大いに益する所となり、之を記念して村議会議員一同之を建つ。

買受地積 参拾壱丁六反四畝七歩 地上立木

買受価格 弐百拾弐万九千八百七拾七圓

所有権保存登記 昭和28年8月12日

石碑より

 


 

 

 

 

訪問記

どこの城址もそうであるように、各郭は立木によって遺構の確認がむずかしい。この城も本丸を除きその例に漏れない。本丸までの城道は歩きやすく、訪城日は土曜日であったが一人も出会わなかった。平成14年4月13日(土)